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人はなぜ勉強するのか?
皆さんはこの問いにどんな答えを持っているでしょうか?
色んな答えがあるかと思います。そのどれもがあなた自身が考えている時点で恐らく正解なのでしょう。
さて、私にとって勉強とは将来苦労しないためにすること、とりあえず先の事は分からないのでやっておいた方がいい事、それが学生の本分であるから、など考えていました。
しかし、実際のところ、私は大学を勉強せず学力関係なしに受かりました。しないといけないと言い聞かされていた勉強は最初からしなくてよかったのです。
ここまで聞くと反論がいくらでも湧いて来るでしょう。
これでは説明不足なのです、今回話したいことの本質はここではありません。
私が話したいのは、”勉強”や”学習”という言葉そのものが老朽化して現代の人間には苦痛となっている事です。
大体、多くの人が勉強をする、学習をすると行動に移すと、それは修業のような心身に苦痛をもたらす行為を想像することでしょう。
ですから、多くの人は勉強をせずに楽をしてより良い人生を送りたいと思うでしょう。
これが私たちが積み重ねて来た歴史の所業なのです。罪と言ってもよいのかもしれません、それだけ私たちはこの”勉強””学習”といった言葉を穢し、汚してきたのです。
私はゲームが大好きで、特にRPGが好きです。
このロールプレイングゲームをすることで数字の計算能力が鍛えられることは皆さんご存じでしょう。
このように人は勉強しているという意識がなくても学習しているのです。
そして、こうした行為に苦痛は伴いません。
例はいくらでも思いつくかと思うので割愛します。
しかし、人が目標に向かって進むとき、”勉強をする””学習をする”という意識を持たないだけで多くのストレスを感じることが無くなっていくのではないでしょうか?
つまり私が言いたいことはそういうことで、頑張って勉強をしたことが美徳であり、褒められることであるという価値観そのものが、すでに人を苦しめているという事なのです。
人は楽しく生き、楽しく学び、楽しく成長して、先に進んでいけるよう変わっていけなければならないのでしょう。
それが人にとっての幸せであり、一つの進化の形だと思います。
近未来的な都合のいい学習方法が開発されるのを待つよりも、現実的な考えだと私は思います。
もう少し先のステップの話しをすると少々しんどい話しになってしまうので、それは今回は止めておきますが、こういった基本的概念を持つことの大切さを少し意識するだけで、自分の人生にとっても、親や教師として教育する立場として考えたとしても、より良く変わっていけるのではないでしょうか。
最後に、私はこういった考えを持ち、”勉強”や”学習”に変わる、より前進的な言葉が世間に広く使われるような社会に変わっていくことを望みます。
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