猫の涙

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 それ以外でも、僕たちは変わらず他愛無い話や冗談を言い合ったりした。  夏彦さんはある日僕に訊いた。 『君は好きな人がいないの?』  僕は恋を知らなかった。そのせいか、時々小説や映画で観たのを真似をして恋愛の話なんかを書いても、ちっともリアルにならなかった。 『好きって、何をもってそれと定義しますか?』  夏彦さんはその質問に、いつもの柔らかい文面で答えた。 『例えば、綺麗な景色を見るとする。それを一番最初に共有したいと思う相手がいたとしたら、それが君の好きな人だよ』 『僕は外に出ないから、綺麗な景色を見ることはないです』 『なら、一度外に出てみるといい』 『簡単に言うけど、それは僕にとってすごく大変なことです』 『案外、出てみたら大したことないかも知れないよ。最初は怖いかも知れないけどね。ずっと自分の価値観のみで完結された世界の中で創作しているよりも、外で色んな人に会って、手始めに、街に出て映画でも観てきたらいいんじゃないか?』  絶対に無理だと思った。僕にはできないと。  今までみたいに逃げることもできる。けれど、夏彦さんが僕を思ってアドバイスをくれているのが痛いくらいに伝わる。逃げるのは申し訳ない。もしかしたら今しかないのかもしれない。この現状を変えられるのはーー。
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