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プロローグ
2023年6月7日。
霧谷やちよはスマホの手帳を見た。時刻はまだ9時になっていない。もう一軒回れるな、と車から薬の臨床試験データを記した紙と勉強会の案内チラシを取り出す。
やちよは中日本製薬のMR(医薬品情報担当)だ。仕事は医師、薬剤師に新薬の作用副作用を説明したり、勉強会を開いて最新の薬物療法を知ってもらうこと。
やちよは山波大学の農学部を卒業後、MRとなった。
MR歴5年目、27歳のやちよは、愛車の鏡でヘアスタイルを確認した。よし、寝ぐせは治ったと安堵する。
やちよは山波町立病院から処方箋を応需する門前薬局を回るのがメインの仕事だ。
山波町立病院は中規模の病院で、自己免疫疾患の治療実績で有名だ。リウマチセンターを持ち、リウマチ患者はもちろん、アトピー性皮膚炎や潰瘍性大腸炎の患者が多く受診する。
病院の門前には3件の薬局が営業している。一つは全国チェーンの大手薬局ツヴァイ薬局、もう一つは山波市に本社がある山波調剤グループ薬局、最後は社長が個人経営しているみどり薬局だ。
近く、山波町立病院の近隣に山波診療所が開設する予定のため、処方箋応需の回数が大幅に増えることが予想されている。診療所はがん領域を含めた在宅医療を推し進めるらしい。そうすれば3店舗には新しい販路が開ける。
やちよは最近3店舗とも営業に回った。全国チェーンのツヴァイ薬局を除き、2件の薬局で新社員を募集していた。というのも、薬剤師一人が調剤できる処方箋は一日40枚まで。この基準は薬剤師が安全に仕事ができるよう法律で定められているのだ。販路が新規開拓され、持ち込まれる処方箋が増えれば対応する薬剤師を増やす必要がある。
開店前に嫌な顔をされずに営業ができるのはみどり薬局。昨年在宅医療に備えて無菌調剤室を増築した勢いのある薬局だ。他の2件とは違いガチガチの業務マニュアルは無い。社長がルールのため、多少営業時間にずれ込んでも患者さんに迷惑さえかけなければ話を聞いてもらえる。
やちよはみどり薬局へ向けて歩き出した。
途中、青い服を着た若そうな男性がカバンを持って走ってきた。おや、欠品があったのかなと考えた。薬剤の卸にはたまにあることだ。受注したが当日配達ができない医薬品もある。その医薬品は仕方なしに翌日の早朝に納品することがある。朝早いのに気の毒なことだ、と思う。
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