10人が本棚に入れています
本棚に追加
大阪社長が額に汗をにじませながら答えた。大阪社長は51歳の働き盛り。みどり薬局唯一の男性だ。髪は少し後退してきてはいるものの、そこ以外は老いを感じさせない精悍さを持っている。個人経営にもかかわらず昨年無菌調剤室を増設したやり手だ。
「山口さん、昨日の売り上げは分かるかね?」
社長の言葉に山口さんが眼鏡のツルをキッと上げ、パソコンに指を走らせる。
「22万、4197円ですね」
「お札。22万と4千円が綺麗に無くなっているわね。小銭には手をつけなかったみたい。泥棒で確定かも」
月影先生が破壊されたレジを見て、疲れた様子でつぶやいた。
「社長! 無人の薬局に誰かが侵入したんです。すぐに警察に電話を!」
海野先生が大きな声をあげた。
大阪社長がびくん、と背筋を伸ばす。
「そうだな。住居侵入と窃盗だ。今、裏から警察を呼ぶよ」
大阪社長はそう言うと、スマホを持った。レジと調剤室を抜けて、職員の休憩スペースへと消えてゆく。
「山口さん、今すぐ薬品の理論在庫をコピーして。月影さんは麻薬、毒薬、向精神薬の順に個数をチェック」
海野先生がてきぱきと指示を出す。
月影先生が調剤室へ戻る。
やちよに手伝えることは無い。しかしだからといって帰るわけにもいかず、待合室のイスに腰かけた。
「医療用麻薬、毒薬ともに異常ありません」
調剤室から月影先生の嬉しそうな声がした。
薬と言えど麻薬は麻薬。鍵をかけた堅牢な金庫に保管するというルールがある。もし盗難されれば厚生労働省の麻薬取締部が動く事態となる。レジは壊されても麻薬金庫は大丈夫だったということか。
毒薬は治療域と中毒域が極めて近い薬剤で、不正に使用されれば命を落とす危険がある。
毒薬は専用の棚と管理簿の徹底が定められている。
みどり薬局のコンプライアンスは良好だったことが示された。
海野先生も当面の危機が去ったことを感じたのか、初めて緊張がほぐれた顔をした。
月影先生が蒼白な顔をしてレジスペースに戻った。声をかけようと思ったが、話しかけるなというオーラが全開だった。山口さんがプリントアウトした薬剤の理論在庫票をつかみ、調剤スペースへと戻ってゆく。
ややあって、
「向精神薬が合いません。エチゾラム100錠、トリアゾラム100錠が盗まれています」
「何ですって」
月影先生の声に、海野先生が調剤スペースに戻った。
やちよはぼんやりと犯人像を推理した。現在ではもっと安全な睡眠導入剤がある。やや依存の危険性があるベンゾジアゼピン系の薬をきっちり盗んだということは、多少の薬学知識のある人物なのだろう。
調剤室で、「ぎええ!」という声がした。
海野先生まで叫んでいた。
「何かあったんですか?」
思わずやちよが身を乗り出すと、
「リンヴォックが18箱盗まれているのよ」
と海野先生の弱弱しい声がした。
それはまずい。
リンヴォック錠は一箱28錠入り。一錠、45mg錠で約9600円、30mg錠で7300円、15mg錠で5000円、7.5mg錠で2600円するのだ。
みどり薬局はこの一晩で、推計250万円以上する薬を盗み出された。
やちよが背筋を寒くしていると、駐車場に黒塗りの車が止まった。中から目つきの悪そうな壮年の男性が歩いてくる。
サイレンは鳴らさない。
ゆっくりとした警察の臨場であった。
最初のコメントを投稿しよう!