それぞれの道へ

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大野屋の奥で謹慎生活を送っている 千里は、することがなく暇を持て余していた。 謹慎中なので、自由に外出したり 人と会うことも出来ない。 書を読むか、気が向けば写経をする程度。 いつまで経っても変わらぬ状況に、 半年も経たぬうちに、千里は苦情を言い始めた。 「母上様、どうか若殿様にお取りなしいただき、一日も早く若君様と共に城に戻れるようして下さいませ。」 「千里はなぜ城に戻りたいのじゃ?」 「それは、もちろん若殿様のお力になりたいからでございます。 私は、健康でございますから、まだ 若殿様の御子を上げることが出来まする。」 「それだけならば、智枝も城に上がったし、二人のご側室も居られるから、心配はない。 若殿様のお役に立ちたいのならば、 まずここで出来ることを考えてやるのが筋ではないのか? 何故加藤家預かりになったのか、その意味を考えた上で申しているのか? 千里は、謹慎となった訳を分かっておらぬようじゃな。」 「それは…」 「城に上がる際にお父上様にきつく言われた言葉をもはや忘れたようだの、千里。 己の欲を満たすための行いをするようなら、城に上がるでないと仰ったであろう? 藩主の母になりたいというのは、 己の欲以外の何があるというのじゃ。 若殿様の子として生まれても、藩主となるのが幸せとは限らない。民の父となるということは、それほど重いことなのだと分からぬか? たとえ城に戻ったとしても、若殿様の側室に戻れるなどと考えてはなりませぬ。 兄である藩主を支える右腕となるのが、 若君の役目とは思えないのであれば、 もう城には戻らぬ方が良い。」 「一生ここで無為な時間を過ごせと仰るのですか?」 「無為な時間とするか、有為な時間にするかは、自分の心の有り様次第であろう。 そなたは、御正室様や八重様のお気持ちを考えたことはあるか? 御次男を加藤家に預けなければならなかった若殿様のお気持ちを考えたことはあるのか? つらいのは、自分だけだと思っているから、何もすることができないなどと考えるのだと言うことに、そろそろ気付きなさい。」 つらいのは、私だけではないと? 御正室様?八重様?若殿様のお気持ち? 千里は何故自分が責められるのか、 腑に落ちなかった。 美智様に負けまいと、薬を使って長男の座を得ようとしたのが間違っていたのは、わかる。 本来は、罰を受けても仕方がない所を、殿様の温情で謹慎で済んだことも分かっている。 だから、こうして家の奥で大人しく謹慎し、息子に会うのも我慢しているのだ。 自分の何がいけないのか、千里には分からなかった。母ではらちが開かないと、今度は父に訴えた。 「父上様。私が間違っていたことは 充分反省いたしております。 どうが、城に戻れるよう殿様にお取り無し下さいませ。 若君に会えぬのも辛うございます。」 「それは、母であるならば子に会えぬのは辛いであろう。だが、若君様の方がお辛いのを我慢しておられぬとは思わないか? まだまだ、母に甘えたいお歳ではないか。 そして、若殿様とて、その気持ちは同じであろう。どんなにか、お手許にてお育てになりたいと思っておられることか。 そうできなくさせたのは、誰じゃ?」 「私のせいだとおっしゃるのですか?」 「違うか? 若殿様とて、若君もそなたも疎ましく思って遠ざけられてのではない。 近くに置けば、また政争の具にされることを恐れておられるのだ。 そなたは、養父の口車に乗せられて、 やってはいけない薬の使い方をした。 それだけで、本来であればそなたも若君様さえ死罪となっても当然の振る舞いであろう。 この大野屋も閉じなくてはならなかったはずじゃ。 加藤家も絶家となったかもしれぬ。 殿様や若殿様の温情で私たちが生かされているのは、何故だと思う?」 「…」 「その理由が分からぬうちは、 若君様のために謹慎しているしかない。」 「私が反省しておらぬと、城に戻れば、 また何かしでかすとお思いなのですね。」 「一度失った信用を、たかが半年の謹慎で取り戻せるなど思うでない。 一生かけて償うと心を決めれば、 己のすべき事も見えてこよう。」 「一生かけて償うなど、私のしたことはそれほど悪いことをなのでございますか? 身体に害のない、普通に使われている薬を贈っただけなのに…」 「まだわからぬようだのう。 薬は、須く必要のない者にとっては毒なのだ。薬屋の娘のそなたがそんなことも知らぬとは、私の育て方が間違っていたようだ。 そして、そなたの一番の罪は、殿様と若殿様様のご信頼を裏切ったことだ。 なぜ、商人の娘のそなたをわざわざ養女にして武家の娘として城に上げることになったと思う? 跡目争いで藩内が乱れぬよう、加藤家を信頼して、加藤の縁に繋がる者ならば、欲に駆られておかしな事はしないであろうとそう思われたのだ。 そなたは、代々加藤家が築き上げてきた信頼を粉々にしたのだ。 それでも、なお加藤家に若君様を預けられて、信頼を立て直す機会を与えて下さったのだ。 それは、史乃と結里が心を尽くして若殿の御正室様にお仕えしているからでもある。」 「母上様と結里が御正室様にお仕えしているとはどういうことでございますか?」 「そなたが御次男を上げたことで、 養父母である私たちがお城に呼ばれ、 お褒めの言葉をいただいた。 何か褒美を与えるとのお言葉があった時に、史乃が御正室様にお目通りしたいと願い出たのだ。」 「母上様は、私と若君の後押しを御正室様に御願いしてくださったのですね。 やはり母上様とて、私の出世を喜んで下さったのでございましょう?」 「それなら、登城の折、そなたと若君にも会いに行ったはずだ。だが、行かなかった。そなたは、史乃と結里が御正室様とお目通りしたのも知らぬであろう? 史乃が御正室様にお目通りを願ったのは、御正室様をお慰めするためだ。」 「お慰めするため?」 「己がもし御正室様の立場であったら、どうか考えてみよ。 藩として、若殿様としては我が子の誕生、お世継ぎの誕生は、嬉しく目出度い慶事だ。 御正室様は妻として若殿様のためにお喜びであったろう。 しかし、同時に人であるならば、自分が産めなかった悔しさ、つらさがお有りにあったに違いない。その気持ちは胸の奥に仕舞って、若殿様のために歓び、側室たちに労いの言葉をかけられたはずだ。 その時に、千里は御正室様に対し、 勝ち誇ったような失礼な態度をよもや取ってはおるまいな?」 「そ、それは…」 千里は背中に冷や汗が流れるのを感じた。 「史乃と私の間には子がない。 婚期が遅れたせいもあるが、自分たちの子が生まれることで、千里と結里に肩身の狭い思いをさせてしまうかもしれないと考えたからだ。 我らとて、聖人君子ではないただの凡夫だ。 赤子の頃から我が子のように育てていても、自分に子が生まれれば、やはり贔屓してしまうであろう。だから、ふたりを実の娘と思って、私たちの子は作らないと決めたのだ。 しかし、史乃とてやはり普通の女なのだ。生みたくても産めないつらさがあったのだ。 だらこそ、御正室様も誰にも言えないお辛さがあるに違いないと、お目通り願ったのだ。 それからは、御正室様と史乃と結里は、和歌を学ぶ仲間として文のやり取りを続けている。 史乃は、私にさえ御正室様との文のやり取りの中身は教えてくれない。 だからこそ、御正室様も史乃を信頼して心を打ち明けてくださるのだ。 結里は、和歌と共に若君様のご様子なども書き送っているようだ。 分かったか、千里。 それぞれ自分のできることで、失った信用を取り戻す努力をしているのだ。 それが、ひいては藩のためにもなり、殿様、若殿様のおためにもなる。 分かったら、今後自ら城に戻ることなど、 一切口にしないように。良いな。」 「分かりましてございます。」 千里は、そう答えるしかなかった。
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