かけたひと

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 彼はかけたひととして骸堂(むくろどう)と呼ばれる建物の一室に閉じ込められた。  閉じ込められた、と言っても彼はどこに置かれてもそう表現するしかない。四肢を失った彼は自分の意思で動くことができない。 「……髪は、切らないで頂けます、か?」  彼を世話するのは主治医と呼ばれる中老の人物。この骸堂に入ることができる人物はごく一部に限られていて、そのうちの一人が主治医、彼の世話役も兼ねた医者だ。 「かしこまりました」  半年以上切られていない髪は腰まで伸びている。毛先は色が抜けていて根本よりかなり明るい。  妹が長い髪を切りたいと言っていた。だから、彼は髪を伸ばしていたのだ。妹の望みを叶えるために、邪魔で仕方がなくても我慢した。  もうその妹は存在せず、望みも消えているのだが、彼は妹以外に髪を切られたくない。妹のために伸ばしていた髪を、他の誰かに切られたくはないのだ。  どうせ、自分もすぐに死ぬ。彼が生きてきた十七年の間に、四人のかけたひとが死んだ。  かけたひととなりすぐに子を作り、その子が生まれた五日後に死んだかけたひともいた。その子はかけたひとの子として、生まれた二日後に殺されて食べられた。 「お義母様から遣わされた女が来ております」  今すぐにでも子を作らなければならない。短命なかけたひとに課せられた義務だ。  彼が儀式を終え、奇声を上げ続けた後に意識を失って、目が覚めたのは六日後。その日中に見知らぬ女が彼の前に現れた。彼の妻になる、この国ではおんなひとと呼ばれるかけたひとの妻になるべく、義母が遣わした女だ。  四肢のないかけたひとは性行為をすることもままならず、主治医の立ち会いの元おんなひととの性行為をしなければならない。  本当だったら、彼がかけたひとになってから半年以上は経っている今ならば、おんなひとの腹が膨らみ始めなければならない。次の儀式に必要なかけたひとの子を宿していなければならないのだ。  だが、未だに彼は子を作っていない。  子を作る以前に、おんなひとが定まってもいなければ、性行為すらもまともにできていない。 「今日こそは、私もしっかりと手伝いますので」  主治医の言葉は冷たい。いつになったら。そんな意味が込められてる。  主治医の男は医者としての腕が良いわけではない。ただ、義母が適当に選んだ主治医だ。文化も医療も遅れたこの国では、腕が良い医者でも他国から比べればたかが知れている。  だと言うのに、腕が良い医者ですらないこの男に何ができるのだろうか。  彼と主治医が住まう骸堂には窓が一つもない。起きても寝ても、どの時間でも変わらない薄暗さ。暗い部屋に複数の蝋燭が心許なくぼんやりと明るさを足している。  薄暗い、今が朝か昼か夜か、何もわからない彼の部屋。蝋燭がぼんやりと照らすのは四肢のなく長い髪を垂らす彼、彼の後ろの壁には骸骨が積み上がっている。  彼がかけたひとになり食べた者の、救った罪人の骸骨。そして、彼の隣には黒い祭壇。柱のような見た目をしていて、目を凝らすと祭壇は装飾が施されている。  祭壇の高さは彼とほぼ同じ。そんな祭壇の上には小さな骸骨がぽつんと置かれている。  他の骸骨は後ろの壁に積み重ねられているが、祭壇の上には小さな骸骨が一つだけ。特別な骸骨、彼の救った最初の罪人、前かけたひとの子の骸骨だ。  これはどのかけたひとの時も存在する。  かけたひととは罪人を救うために、神を宿す入れ物である自らの体と同化させる。同化させるために罪人を食べる。  だが、入れ物も元はただの人間。そんな人間が同じ人間の肉を食べるのは許されざる罪に当たる。そんな入れ物の罪を忘れさせないために、子供の骸骨を常に視線に入る場所に置くのが決まりだ。 「初めまして、かけたひと」    女は淑やかに膝を曲げて挨拶をする。横に広がるように固定されているドレスに手を添えて、お手本通りの動きだ。  だが、淑やかに動いたのも束の間、主治医の手伝いで女はすぐにドレスを脱いで肌を露わにする。  普段は隠されている腕、足、胸、下腹部。女は恥ずかしそうに隠すこともなく、何も変わっていないと言わんばかりの顔だ。  主治医は彼を動かして寝かせる。  かけたひととおんなひとの性行為は女が上になる。動けないかけたひとのために、女が上に乗り自ら腰を動かすのだ。  女の動きに合わせてかけたひとの体がずれてしまわないために、主治医はかけたひとの体を押さえる役目がある。  今度こそ、今日こそは。主治医は心の中で願い続けながら彼を押さえる。女は足を開き彼の上に股がろうとするが、またしてもいつもと同じことが起こる。他の女たち同様、彼の性器を挿入することなく、女は足を開いたまま、彼の様子を見て固まる。  普段の穏やかな彼とはまるで別人のような顔付き。荒々しい声。聞こえてくる彼の声は文章から言葉へ、言葉から音へ。次第に知能を失っているように感じる。怯えた顔付きになり、そして最後には「謝りたい、謝らせてください」そう懇願する。  何もないのに、誰もいないのに。彼のその異様な興奮状態に女は抜けた腰を必死に引きずりながら、少しづつ離れて彼と距離を保つ。  主治医はまたか、と言わんばかりに深いため息をこぼす。そして、いつもと同じように、彼の体に傷が残るような痛みを与える。  剣で切り裂き、硬く丈夫な木の皮を擦り付け、金槌で力いっぱい殴り、松明を近づけて火傷を負わせて。彼が気を失うほどの痛みを与える。そうしなければ、気を失わなければ、彼は気が狂ったように叫び続けるのだ。 「……お義母様には私から話しておこう。お前は服を持って帰りなさい」  女の抜けた腰は直らない。だが、今すぐにここから離れたい気持ちが勝った。  全裸のまま四つん這いで部屋から出ていく。彼と主治医からは女の性器が丸見えだが、彼は叫び続けているし、主治医は彼の気を失わせるのに忙しい。気にしてもいない。  女が出て行き、やっと彼の気を失わせることができた主治医の表情は女が来た時よりももっとずっと老けて見える。それほど、彼の気を失わせるのは大変な作業なのだ。 「……そう、ただの作業。かけたひととは人ではない。ただの入れ物。私が今傷付けているのは、人では、ない」  主治医は彼と生活を共にするようになり、彼が常軌を逸した行動や言動を繰り返すことに慣れてしまった。彼を傷付けることに心を痛めていたのに、何とも思わなくってしまった。  医者として、自分の行いは正しいはずがない。人間としても間違っている。そう思っていても、そうするしかない。  薬で眠らせることができれば。それができればこれほどまでに苦労することもない。だが、かけたひとに薬を使うことは許されていないのだ。  非人道的な処置を行うことしかできず、主治医はそれを当たり前なのだと思い込ませて心を守っている。  腕が良くなくとも、医者として、人間として正しい行いをしたい。人を助けたいから医者になったというのに、あの女、前おんなひとに目を付けられ、この役目を押し付けられた時から、自分は医者でもなくなってしまった。  彼の常軌を逸した言動は彼自身だけではなく、主治医の心身にも傷を増やし続けている。
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