かけたひと

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 主治医は決まった日に骸堂から姿を消す。  主治医としての役目を果たすために、骸堂から遠く離れた義母の住まう豪華絢爛な建物に報告をしに行く。  その間も彼は一人ではない。常に一人にはなれない。  かけたひとになる前、愛する家族と暮らしていた小さな港町でもそうだった。  彼の目には常に誰かが写っている。漁をするために船に乗っている時も、家族と共に過ごしていた時も、胴場での儀式の時も、骸堂で目覚めた時も。  今だってそうだ。薄暗い彼の部屋には、様々な人々が映っている。  人々は思い思いに過ごしている。骸骨をまじまじと見つめるもの、祭壇の上の小さな骸骨を小突くもの、壁を行ったり来たりと動き回るもの、ごろごろと転がるもの、ぴくりとも動かずに寝ているもの。  遠くには子どもの姿も見える。あの子は、彼がかけたひとになってからずっといる。視界の端から彼を見つめている。  港町で彼には霊が見えると有名だった。霊が見えるからと話せるわけでも操れるわけでもない。彼曰く、ただ見えているだけ。  その噂を聞き、義母と彼をかけたひとにした監視役の男は利用することを決めた。  神という存在を必要とするこの国で、霊が見える彼という存在価値は高い。真偽はどうでもいい。関係ないことだ。  ただ、そういう噂を持つ存在がいる。それだけで義母たちの野心のピースとして十分なのだ。  君、この一年で何人食べたの? 君がかけたひとになって何人が殺されたの?  子どもは問いかける。彼が目を背けたい自らの罪を忘れさせないように、毎日、毎日。  あの子は一年前、彼がかけたひとになるための儀式の時から見えるようになった。  父親が死んで、すぐに殺されて彼に食べられた前かけたひとの子ども。  わかってる。忘れちゃいけないことだって。僕が一番思ってる。心ではそう思っても、彼はそれを口に出さない。 「僕もすぐに死ぬから。君の望みは叶うよ。安心して僕を恨んで呪い続けて」  優しい声で子どもに話しかけても答えはない。子どもはいつものように、彼の視界の端から動こうとはしない。  義務を果たさなくては。かけたひととして子を作らなければならない。  主治医に毎日言われている。初めは毎日義母が遣わせた女が訪れた。彼よりも幼い女から、彼の母より歳上に見えるような女まで。様々な女が骸堂を訪れては逃げ帰った。  性行為をしようとすると、女が彼の上に股がろうとすると、子どもが近づいてきて彼を罵り始める。  彼は子どもに謝りたい。ただその一心なのに、どうしてか体も声もおかしくなる。自分の体なのに、誰か違う人に、ものに、乗っ取られたように自由が利かなくなる。  自分が何かを叫んでいるのはわかっても、まるで他人を見ているような、そんな感覚に陥ってしまう。  主治医が義母にこの症状を報告してから、女を遣わせる頻度は減っている。減ってはいるが、義母は子を作ることは諦めてはいない。  義母は政治を動かす人々に彼が霊を見ることができること、そして異様な興奮状態になるのは入れ物であるはずの彼に霊が入り込み、神がその霊を拒絶している状態だと説明した。  主治医は義母の言いなり。女を受け入れ続け、性行為をさせようとして、興奮状態になったら気を失わせる。  全ては義母の思わくどおり。このままいけば義母の思うがまま、この国を動かすことができる。最後は彼と主治医に全てを押し付けて殺せば完璧。  義母は遠く離れた場所で彼の死をどう彩ってやろうか。怪しげな笑みを浮かべながら考えている。  彼は一度しか会ったことのない義母がそんなことを考えているなど露知らず、毎日変わらない日々を繰り返し続ける。  何もできない体で何もせずに過ごし、主治医とまともに話すこともなく毎日されるがまま。頻度が減ったとはいえ定期的に訪れる女と性行為を強要され、興奮状態になって気を失う。  変わらない日々をこれからも過ごすのだと、きっと自分は子を持つことなく死ぬのだろうと。  義務を果たせずに申し訳ないと毎日誰にも届くことのない謝罪を心に浮かべる。  そんな変わらない毎日が変わる日が来た。  いつものように主治医は義母への報告のため骸堂には彼一人きり。彼は目に映るものたちの様子を眺めているだけ。  だいぶ伸びた髪を見て、家族は今どこかで自分を見守ってくれているのだろうか。少しだけ懐かしい記憶を思い出している時だった。  こんこん、こん。  骸堂に主治医とおんなひと候補として遣わされた女以外が入ることは許されていない。  彼は主治医が帰ってきたのだと、随分早いと思いながら声をあげずにいる。  ノックは入りますの合図のようなもの。声をあげずとも、主治医は勝手に入ってくる。  こんこんこん、こん。  いつもと違う。彼はここで初めて不安を抱く。 「……どなたかいらっしゃいますか? 入ってもよろしいでしょうか?」  恐る恐る。そんな様子が伝わってくる声が微かに聞こえてくる。今のは、主治医の声じゃない。彼の知らない男の声だ。  骸堂に主治医以外の男が入ることは許されていないはず。なぜ、どうして、扉の外にいるのは誰? 「……失礼しますよ」  待って。入ってはいけない。彼が声を出すよりも前に、男は扉を開けてしまった。 「すぐにここから逃げて。ここにあなたは入ってはいけない。主治医が帰ってくる前に、誰かに見られる前に、早くここから「手足が、ない」  男が殺されないように、彼はここに来てから初めて自らの意思で声を荒らげる。  主治医はまだ帰って来ないだろうが、もし誰かが見ていたら。  きっと男はこの国の人ではない。そんな外国人をこの国で殺してしまうわけにはいかない。彼が食べる対象の罪人になってはいけない。  彼は今すぐに男を逃がしたい一心なのだ。それなのに、男は彼の姿を見て扉近くで足を止めてしまう。  あぁ、そうだった。僕の姿は異様なのだ。普通ではなく差別の目を向けられる対象なのだ。  この一年、忘れていたことを第三者に改めて思い知らされる。 「私の姿は思い出さないで。二度と思い出さないように忘却して。そして、すぐにこの部屋から建物から、国から出た方がいい。君の大事な命を、君を待つ愛しい人たちのためにも、今すぐに逃げて」 「……申し訳ない。少しばかり驚いてしまった」  男は彼の言葉を無視して、部屋から出るどころか彼に近づく。彼の目の前で座り込み、彼と目を合わせる。 「何をしてるの!? 早く逃げないと、誰かに見つかったら君は殺されてしまうんだ!」 「そうは言われても、これほどまでに傷付いた人を放ってしまっては、私は今後医者とは名乗れない」  男は彼の傷の状態を目で見て、手で触れて確認する。失礼と手足の切断面にも触れる。 「全ての傷を消すことはできないが、この左脇腹の傷は比較的新しく治療が必要なもの。少しだけ痛むかもしれないが、我慢してくれ」  男は持っていた大きな革の鞄の留め具をばちんと音を鳴らして外し、中から治療に必要な器具と薬を取り出す。 「待って、僕のことはいい。何もしなくていいから早く逃げて」 「無理な話だ。医者である私に死ねと言っているのと同意味の言葉」 「お願い、お願いだから僕に何もしないで。色んな決まりを破ることになってしまう。君も、殺されてしまう」 「今ここで患者を放っても、私はこの後首を括ることになる」  彼は言葉でしか抵抗ができない。手足がなくては、男の動きを止めることができるはずがない。  されるがまま。抵抗ができない彼はただただ治療された。この男が何者なのか、どこの国出身なのか、なぜこの骸堂に入ってきたのか、どうして医者がこんな国に足を踏み入れているのか。  全てがわからず、疑問になる。 「……僕の治療をしてくれたことは感謝しています。していますが、すぐにでもここから逃げ出して。僕は君を食べたくない」 「何を言っているのかよくわからないが……私は何か悪いことをしたのか? 医者としてやるべきことをしただけだろう」  治療が終わり、彼の体は包帯で覆われている。  どれほど時間が経ったのかわからない。もう主治医がいつ帰ってきてもおかしくはない。  主治医のためにも、この男を早く逃がさなければ。 「お願いだから、僕と君、そして主治医のためにもここから逃げて。本当に、頼みます」 「主治医がいるのに、君の体はそんなに傷だらけで放置されているのか? 正気の沙汰とは思えない」 「いいから、僕のことは放っておいて。お願い、早くここから出て行って」 「どうしてそこまで私を出て行かせようとするのか理解に苦しむ。私は医者だ。君をそんな状態で放置できる主治医とやらよりも、私の方が余程「お願い! 早く出て行って! 何も知らない外国人が僕たちに関わらないでくれ!」  男は言うことを聞こうとしない。出て行く素振りを微塵も見せてはくれない。彼はどうすればいいかわからず、ひたすらに声を荒らげる。 「僕たちが一番わかってる。全てがおかしくて、狂ってて、救いようがないって、どうしようもないって! わかってても、誰かがここにいなければならないから、他の誰かが僕と同じ気持ちになるなら、苦しむなら痛めつけられるなら。だから僕はここにいる。僕は自分の意思でここに留まってるんだ! 何も知らないお前に、何が……」  彼は不自然にぐるりと目を動かして部屋中を見渡す。  彼にしか見えないものたちが、彼の視線に常に映るはずのものたちがいない。子どもすらいない。  どうして、なんで、いつもと違うのだろう。  その代わり、姿は見えていないのにそのものたちの声はいつもより大きくはっきりと彼の耳に届いている。  声はどんどん増えて、大きくなっていく。  彼の耳には目の前の男の声は一切聞こえない。見えないものたちの声で支配される。  彼の息は荒くなり、目は焦点が合っていない。  言葉ではない何かを話し始め、首は赤子のようにぐらぐらと動き回る。  男は初めて見る彼の興奮状態をじっと観察している。興味深く、少しの反応も見逃さないように。  男は彼の目の前に手を差し出して左右に動かしたり、体を触って反応を見ている。  彼は男に何をされても反応を示さない。この興奮状態は外からの刺激を感じることが難しいという結果にたどり着く。  男は顎に手を当てて、どうするべきかを悩み始める。この手の症状にはどの薬を組み合わせて使えばいいのだろうか。  彼が飲んでくれるのだろうか、その疑問も捨てきれないまま、鞄の中から何種類かの薬を取り出す。どうすれば、この興奮状態に一番適切か。それを第一に男は薬を調合する。  どた、どたどた、どたり。がちゃ、ぎぎっ。  主治医は骸堂の外にも響く彼の声を聞いて、急いで部屋に駆け込んだ。いつもと同じ彼の興奮状態。そして、見知らぬ男が彼の近くで何やら作業をしてる。  目を疑ったが、まず第一は彼を眠らせることだ。入口近くに置いてある金槌を持ち、走り出す。その勢いのまま、男が治療したばかりの彼の左脇腹に力いっぱい金槌を振り下ろす。  男は集中していて主治医の登場には気付かなかったが、主治医が走り出した時にやっと気が付いた。  金槌を持って走る主治医。向かう先は興奮状態の彼。主治医が何をしようとしているか理解できた時には、もう既に金槌が振り下ろされていた。 「何をしているんだ!?」  男の怒鳴り声が響いたのは彼が意識を手放し倒れ込んだのと同時。男は金槌を持って肩で息をしている主治医の胸ぐらを掴む。 「何を「お前こそ何者だ。何をしている、どうしてここにいる。この骸堂にはかけたひととその妻であるおんなひと。そして二人を世話する主治医の私。その三人しか入ることが許されていない建物。罪人としてかけたひとに食べられるのが望みか?」  男は主治医の言葉の理解が上手くできず、胸ぐらを掴んでいた両手の力を弱める。主治医は力が弱まると、男の両手を払い除けて襟元を正す。 「……あなたの言っている言葉の意味がよくわからないが、あなたが医者ならば、彼が患者ならば、どうしてそんな非道ができる? 同じ医者という立場であるはずなのに、私にはあなたの全てが理解できない。まるで化け物と対峙しているようだ」 「理解を求めた覚えはない。この骸堂という場所、かけたひとという神を宿す入れ物には決まりごとが多い。それを守らなければ私の首が飛ぶ」  主治医は今すぐにこの男を罪人として縛り上げて報告すべきか、はたまたこの男の存在を隠すべきか。どちらの方が自分にとってより危険が少ないかを天秤にかける。  権力がほしかった。だから腕に自信がなくとも、押し付けられているとわかっていても、主治医となることを拒まなかった。  かけたひとという必要不可欠な立場を一番近くで世話をして支える。それがこの国の人々が知っているかけたひとの主治医という立場だ。  この国を動かす人々は秘密主義を掲げているのだろうか。本当はかけたひとが政治に関わることができないと、主治医というのは名ばかりで、ただただかけたひととおんなひとの世話役に過ぎないと。多くの人々は知らない。知らされていない。  かけたひとは罪人を救う神を宿す偉い人で、かけたひと自身も神のような立場と権力を持ち得る者なのだと、主治医はそんな神のようなかけたひとを心身ともに支える、素晴らしき国一番の医者なのだと。そう勘違いをし続けている。 「とにかく、かけたひとにお前が何をしたかおおよその見当はついている。だからこそ、お前をそのまま帰すわけには行かない」  主治医は男に背中を向けて歩き出す。 「一旦、この骸堂に匿う。私の言うとおりにしろ。そうしなければ、私もお前も、かけたひとも。皆殺されてそれで終わりだ」  付いてこい。主治医は男を骸堂唯一の空き部屋に案内する。入口から真っ直ぐに伸びる廊下。入口に一番近い部屋は主治医、その先はかけたひと。そして一番奥、かけたひとの部屋の右隣。三人しか入ることのできない骸堂の三つの部屋の一つ。  かけたひとの妻、おんなひとが住まうべき部屋。主治医はその部屋に男を案内することにした。後のことは自室で落ち着いて考えよう。今日は疲れた。義母と会った日は体力の消耗が激しい。 「食べ物は私が運ぶ。私の許しがあるまでこの部屋から出てくるな。でなければ、私が秘密裏にお前を殺すことになる」 「わかった。条件を飲むとしよう」  男は思いのほか素直に言うことを聞いてくれる。主治医はほっと胸を撫で下ろそうとしたが、男がその行動の邪魔をする。 「だが、条件がある。私に彼を見せてほしい。医者として、彼に興味が湧いた」  主治医の頭はもう限界に近い。今すぐにでもこの場に倒れ込んでしまいたいほど、疲労と眠気に襲われている。 「……わかった。から、まずはこの部屋から出てくれるなよ」  主治医は男を案内した部屋の扉をばたりと閉めて、ふらふらとした足取りで自室に戻る。  一旦はこれで隠しとおせる。義母に知られずに済む。  主治医は一抹の不安を抱きながらも、睡魔には勝てずに自室の入口で倒れ込んでそのまま深い眠りに落ちていく。
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