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主治医の胃はキリリと締め上げられるような音を立てながら痛む。
いつもそうだ。骸堂を出て、馬に乗り、そして豪華絢爛な建物の前に着くと、この建物の付属品のように決まって胃が痛む。
かつかつ、キリリ、かつかつ、キリリ。
主治医には自分の足音が耳から聞こえ、胃が痛む音は体中を駆け巡り、二種類の音しかこの世界には存在しないのではないか。そんな錯覚に陥る。
観音開きの扉の前には従者が二人、主治医の姿を見ると無駄な動きを一切見せず、ただ扉を開ける。
主治医は従者たちの間を素通りして扉の中に足を踏み入れ、後ろの扉が閉められる。逃げ場はない。この部屋の主が合図するまで、主治医が入ってきた扉は開いてはくれない。
喉までせり上がってきた吐瀉物は大きく喉仏を動かして、無理矢理胃に落とす。まだだ、まだ外に出すことはできない。外に出せる時のはこの建物から出て、ある程度の距離が保てた時。
「お義母様におかれましては、顔色良く健やかに過ごしているご様子。けたひとの主治医、イー「挨拶など必要ない、聞く気もない」
椅子に座ったままの初老の女は主治医の言葉を遮る。女の眉間にはしわが深く刻まれていて、常に不機嫌に見える顔立ちだ。
「かけたひとの様子は?」
主治医は吐瀉物を飲み込んだ時と同様、喉仏を大きく上下に動かす。
「す、こし……づつではございますが、その、私の」
主治医の歯切れの悪い言い方に女の眉間のしわは深さも数も増している。誰が見ても、女の怒りを感じとることができる。
「はっきり言え。そのような歯切れの悪い言葉をこの私に聞かせるな」
威圧を含んだ声。主治医は目をつぶり、覚悟を決めなければと大きく息を吸う。吸った息を一瞬で吐き出し、目を大きく開き、口角を上げ、背を正して目線を女に戻す。
「私の試行錯誤が少しづつではございますが、報われているようです」
主治医は少し前とはまるで別人のよう。自信のなさそうな、たどたどしい話し方をしていたはずなのに、自信に満ち溢れて自分の成果をすぐにでも伝えたい、誰かに共有したくてたまらない。正反対の印象を抱かせる話し方を早口で続ける。
「かけたひとの異常な行動や言動は、複合体のように様々な原因が入り組んでいる。と、私は考えております」
主治医は自信満ち溢れる印象を保ちながらも、頭の中は必死に男の言葉を思い出している。男はなんと言っていただろうか、どう説明していたか。一言一句、そのままを思い出さなければ。
「まず、かけたひと自身を一番追い詰めているものとして、常にかけたひとの頭の中に湧き出てくる思考があげられます。あの蝋燭と骸骨しかない骸堂のかけたひとの部屋にいても、かけたひとは目に見えるもの全てを頭の中で文字に変換し、全てを処理すべき情報と捉えているようです。
情報処理をするためにかけたひとの頭は常に思考を止めることができず、結果として不眠が続いております。かけたひとは一週間以上一睡もしないこともありました。不眠と同時に、休むことができずに頻繁に頭痛に襲われております。
思考するための養分としてかけたひとは常人の倍以上の糖分を欲します。高価な砂糖を毎日与えるのは現実的に難しくはありますが、胴場近くに自生している花から蜜を取り出し、その蜜を水に溶かし、かけたひとに与えております。
かけたひとは元々骨格ががっしりとしておりますが、かけたひととなり四肢を失ったため動くことができずに筋力は失われ続け、思考に全ての養分を取られてしまうため、体に肉が付くことがありません。
骸骨に薄い膜を貼り付けたようなみすぼらしい見た目で「私が求めていること以外をぺらぺらと話し続けるな。耳障りだ」
女は主治医が来てから発した言葉は少なく短いが、その切れ味と威圧は凄まじい。主治医が邪魔で、早くこの部屋から出て行きたい、顔を合わせているこの時間が苦痛極まりない。女の全てが感情を表し続けている。
「かけたひとの様子を聞いているのだ。その原因など私には関係ない。興味もない」
主治医は素早く深く腰を曲げ、頭を下げる。自信を見せるために嫌でも女と目を合わせていたが、今はもう恐ろしくて目を見ることも、前を見ることもできない。
「……まだ、今すぐに死ぬことはないかと思われます」
女が求めている情報を簡潔に伝える。
「それならばいい。あの男にはまだ生きていてもらう。私の用意が終わり次第、お前があの男を殺すのだ。あの男はただの繋ぎ、それ以外になんの価値もない」
「かしこまりました。お義母様の仰せのままに」
おんなひとは短命なかけたひとを夫とするため、必ず夫より長生きする宿命を持ち合わせている。通常、かけたひとが死ぬと、おんなひとはすぐに隠居の身となる。この国のどこかに身を隠し、静かに一人死んでゆく。それがおんなひととなった者の最期。
だが、義母は、この女はそうはならなかった。
生まれ持った強欲を満たすため。生まれ育った国を捨て、身分を隠してこの国でおんなひととなった。
様々な規則を破り続け、ひたすらに手を黒く染め続け、女は今の身分を得た。
そして今の身分を守り抜くために、女が最終的に求める身分を得るために、彼の全てを利用し続ける。
彼をかけたひとにし、そしてその命の終わりまでも女は勝手に決めているのだ。
「失礼致します」
主治医が部屋を出て行くと、入れ替わるように男と若い女が入ってくる。
男は彼をかけたひとにした、何も起こっていない胴場で声を張り上げた人物。若い女は最近女に仕え始めた侍女。つき合いは短いが、その有能さで女の信頼をすぐに勝ち取った。
「あの卑しく愚鈍な男に状況把握ができるとは思えない。骸堂を常に見張っていろ。何かあるはずだ」
主治医が良かれと思い話したことは裏目に出ていた。
女が主治医として起用した理由、言いなりになりそうな学のない卑しい愚かな小心者という印象と、あまりにかけ離れた印象を女に与えてしまった。
「小心者が私に逆らうなどと、大それたことができるとも思えないがな」
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