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医者として腕が良いわけでも、人としてできた人間でもない。
長い物には巻かれ続け、流れには決して逆らわず、されるがままに生きてきた主治医でも、男の優秀さはすぐに感じとることができた。
主治医はかけたひとが興奮状態に陥った時、ただただ眠らせなければと、かけたひとを無理矢理眠らせればいいんだと傷を付け続け、血を流し続けていた。命に関わることだとわかってはいても、それが最前の方法なのだと言い聞かせることしかできなかった。
「まず観察することが必要です。ここは時間のある場所なのですから、焦らずにゆっくりと彼の症状を見守って治療法を探るのです」
主治医はその言葉に二度驚かせられた。彼の症状、そして治療法という言葉だ。
かけたひとは生まれつき霊が見えていて、常人には持ち得ない特別な力を持っている。それが前かけたひとが反応した大きな理由の一つだと聞かされていた。
主治医が彼の状態を義母から初めて説明された時に聞かされた言葉だ。
「新しいかけたひとは霊に近しい存在で、霊はかけたひとに憑依しようとしているのだろう。だが、かけたひとの中には既に神が宿っている。中の神が霊を拒絶してそのような状態になる。そう思えば説明が付く」
義母の言葉を丸呑みにし、主治医はそれを信じて疑わなかった。権力者の言葉を疑うなど、小心者の主治医には考え付くものではない。
それなのに、男の言葉は義母の言葉全てを真っ向から否定するものだ。
神と霊の影響で、器である彼はおかしくなる。
それだけで説明が付くのに、男はそれを病だと言うのだ。症状というのは病に使われる言葉で、その病を治す方法として治療法を見つけ出す。主治医は男に説明を求める。
「これを病だと言うのか? 彼は人間ではないのに、人間として扱うと?」
男は主治医の言葉に酷く顔を歪ませる。憎悪の目を向けられた主治医は、おろおろと視線を不自然に逸らす。
「目に見えずとも、心に傷が付く病がこの世には少なからずあります。少なくとも、私が過ごした戦場ではそのような傷を負う者ばかりでした」
男はゆっくりと、彼の観察を始めた。主治医は男を自室から出るなと、さもなければ殺すとそう言ったはずだ。だが、それは一日も守られなかった。
主治医は男の条件を飲むべきではなかったのかもしれない。後悔もしつつ、確実に何かが変わり始めている。その変化が主治医にとって、彼にとっても良きものでありますように。主治医はただただ祈ることしかできない。
男は当たり前のように勝手に部屋を出て、彼の部屋に入り、彼との対話し、持っている紙に何かを書き連ねる。その繰り返し。彼が興奮状態になっても、主治医にいつもどおりの対処を禁じ、一定時間の観察をしたあと、睡眠効果の高い薬を無理矢理口に入れて寝かす。
「……薬を使ってはいけない決まりだ」
「私としても使い続けるつもりはありません。これは効果が強いですが、副作用も強く出てしまう。早く何か有効な治療法を見つけなければ」
主治医は男に強い言葉を使うが、実際のところ男の方が立場は上だ。
医者としての腕の良さ、高い適応能力、柔軟な思考、その場にあるもので全てをまかなうことができる実践経験。男の持ち得る全てが主治医より豊かだった。
「失礼します。主治医殿からの呼び出しとは珍しいですね」
こんこん、どうぞ、がちゃ、ぎしし。
主治医が骸堂に住み始めてから、初めての来客だ。殺風景な部屋に客を呼ぶのは本当だったら忍びないところだが、この男ならば気にすることはない。
「かけたひとの症状のことでしたら、まだ観察が十分に足りていません。治療法を見つけるにはもう少し時間が必要です」
「かけたひとのことではない。お前自身のことを聞くために呼び出した」
主治医は努めて威圧感を出しているつもりだ。義母と話している時に感じる体全てを包み込むほどの威圧感。少しでもそれに近いものを感じさせなければ、強さを見せつけなければ。
主治医は焦りを心の奥底に押さえ込む。
「どうしてこの国に来た、お前は何者だ、誰かに言われてこのようなことをしているのか?」
書き出した質問事項を頭の中にずらりと並べ、その並びのままに男にぶつける。
「あまり詳しく話したくないことも含まれておりますので、簡潔にお答え致します」
男は少しも表情を変えずに、淡々と事実を羅列し始める。
「生まれも育ちも山を超えた先にある隣国にございます。神学者で牧師の父と母との間、六人兄弟の三番目に生まれました。
家族は事故により皆死んでしまい、一人きりになった私は生きるために医術を学び軍医として戦場に向かうことになりました。
そこで様々な経験をして腕を磨きましたが、一人の軍人の処置を間違えてしまい殺めてしまいました。その息子も軍人として戦場にいたので、その者からの叱責と人を殺めてしまった罪悪感に耐えきれず、軍からも国からも離れ、死に場所を見つけるための旅を続けておりました。
その旅の途中で、この建物にたどり着き興味本位で中に入り今に至ります。理由はそれだけ。私はこの国にも自国にも興味がありません。
誰のためでもなく、今はただ目の前の患者を救いたいという医者としての使命感のみにございます」
男の話が本当なのか、全くの作り話なのか。
主治医は男のことを注意深く観察していたが、答えを出せずにいる。嘘をついているような態度は全く見せていないが、全てが本当のことだと信じきることができない。
隣国出身ならばこの男の国の王は。噂が本当ならば、宣戦布告もなしに戦争を仕掛けたはず。そんな王の治める国の者を信用しろという方が難しい。
「悪いが、そう簡単にお前の言葉を信じることは難」
主治医は言葉を最後まで続けずに、音のした方に首を動かす。男も主治医とほぼ同時に同じ反応をする。
「……主治医殿、私におまかせ頂けませんか?」
「治療法とやらを見つけたというのか? まだ観察が足りないと言ったばかりだ」
「正確には、観察はもう終盤。彼にとってどの治療法が適切なのか、試さなければわかりません。候補は既に絞っています。あとは実際に試していくという段階に入ってもいい頃合いです」
男は片膝を突き、腰を九十度曲げ、右手を左肩に添え、お願いしますと仰々しく主治医に頼み込む。
「……三回だけだ。三回で無理ならば私のやり方に口を挟むな」
「お任せ下さい。必ず、私がかけたひとと呼ばれる彼をお救いしましょう」
男は勢いよく姿勢を正し、そのまま主治医の部屋から飛び出して行く。右隣の壁から聞こえる奇声は、嫌でも主治医の耳を支配し、思考すらも奪い取られてしまう。
「私は、医者だ」
主治医は言い聞かせるように、力を込めて言葉を口から出す。
「私は、医者だ」
もう一度、口に出して再確認する。
主治医は、能力が乏しくても医者なのだ。腕が悪くとも、人を生かし、命を救うことができる医者なのだ。
医者として、彼の主治医として、最善を尽くすだけ。主治医にできることはあまりに限られている。
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