かけたひと

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 男は奇声をあげ続ける彼を、いつものように観察している。  最初は文章だったが、次第に単語になり、最後には音となり、終わらない謝罪が始まる。いつもと同じだ。  支離滅裂な文章、繰り返される謝罪、聞くに絶えない音。  男は音を出し始めた彼に近づき、反応の確認。  初めて彼に会った日と同じく、興奮状態の彼は視覚聴覚触覚を感じることができないらしい。何をしても彼の様子は変わらない。  薬を使ってはいけない。男はそんなおかしな決まりを守るつもりはないが、体への負担が大きい薬を使い続けるつもりもない。  薬を使わずに。主治医のやり方は論外。彼に負担の少ない形で興奮状態を治めるには。  男は治療法の候補として一番行いたくない方法から始めることにした。嫌いなことからこなして行く。男は昔からそうしている。  男は覚悟を決めるために自分の太ももを強く叩き、よしっと息を吐く。さぁ、始めようか。自分に対しての言葉を出してから、彼に近づく。  彼の興奮状態はいつも同じ。四肢がない体を動かせる範囲で、不規則に不自然で苦しそうに動かし続け、喉が枯れるほど奇声を発し続ける。  そして、彼の性器は必ず勃起している。男が行いたくない方法は、勃起状態を落ち着かせること。  四肢のない彼は勃起状態の性器を自ら処理することができない。男にとって、自分以外の性器を意識して触るのは初めてのことだ。戦場では意識せずに触ることがあったかもしれないが、記憶にはない。生死を彷徨う兵士相手に性器を触る触らないなどと、考える隙間は頭に存在しない。  勃起状態から通常に戻すには。男は少し躊躇しながらも彼の性器を両手で優しく包み込む。人の性器というのはこんな感触なのか、思考を他所に飛ばしながら男は手を上下に動かす。  彼は音と謝罪を交互に叫び続けていたが、次第に男の手の動きに合わせ息を含んだ声を出し始める。  音、息、音、吐息。  徐々に彼の口からは音が減っていき、艶のある声が出始める。かけたひととなってから、四肢を失ってから、彼は自らの性処理を一回もできていない。一年という長い間、彼は精液を外に出すことをしていなかったのだ。  久しぶりの刺激は、性器を包み込む男の手から生まれる刺激は、言葉に表すことができなくなってしまうほど、彼にとっては刺激的で、絶頂を促すほど強い刺激を与えてくれた。  刺激を与えられ続ける彼の性器はあっけなく精液を外に吐き出す。男は両手に付いた精液を拭くことをせずに紙とペンを素早く持ち、彼の様子を伺う。 「……あ、」  彼は相変わらず音を発しているが、汚く荒らげた声ではない。終始動動き回っていた体も、今は大人しくなっている。 「ど、う……して」  彼の目の前には男と、前かけたひとの子ども。男は彼を観察していて、子どもは彼に笑いかけている。 「なんで、わ……わら……る?」  言葉として出ることはないが、彼しか見えていない子どもは彼の言わんとしてることを感じ取ったらしい。唇の端を釣り上げたまま、目を細めて彼に答えを教える。  赤の他人に、しかも男に、性器を握られて性処理をさせるってどんな気持ち?  子どもは五歳で死んだ。そのような知識を持ち合わせているとは思えないが、子どもは彼にしか見えていない存在。彼や義母、主治医たちは霊と呼ぶ存在。  答えとしては、ただの幻覚。子どもの声は幻聴。  彼は頭の中で勝手に人間を生み出し、それを霊と認識しているだけ。  幻覚は彼の思考を含んだ存在を作り出していて、聞こえてくる幻聴は彼が負い目を感じていることを改めて言い聞かせる。  興奮状態にある彼は意識がある。それが彼を一番苦しめている。  最初は申し訳ない、そんな表情で彼を傷つけていた主治医が、慣れてきてからは真顔で彼を傷付けていく。それを認識しなければならない、記憶として彼の中に留めなければ。  どんどん自分が人間ではなくなっていく。人間として扱われなくなっていく。  その事実を思い知らされるたびに、家族が、子どもが彼に囁くのだ。  お前がいなければ。大勢の者が無意味に殺されることはなかった。  彼のせいではない。その一言を言ってくれる人も幻覚も存在はしない。  彼の頭の中に絶えず生まれ続ける幻覚と幻聴。見えているもの全てに対して異常な程の思考をしてしまい、処理すべき情報はどんどん彼の中に積み上がっていく。  かけたひとになる前よりも、もっとずっと彼は彼自身に苦しめられている。  今もそうだ。目の前の男に性処理をさせてしまったことへの罪悪感、羞恥心。彼の感情を大きく昂らせる幻聴。  情報処理が一切追いつかず、どうすればいいかわからなくなってしまった時。彼は興奮状態に陥ってしまう。  男が勃起状態を治めた直後は落ち着きを取り戻したかに思えたが、彼はまたすぐに興奮状態に逆戻り。落ち着かせたはずの性器も勃起状態になっている。 「我慢比べか……これしかないのなら、負けるわけにはいかないな」  勃起を治め、少し落ち着いてもまたすぐ興奮状態に戻る。それを何度も繰り返す。  耐忍力に自信のある男は何度でも彼の勃起を治め、観察。途中から何回目なのか数えることを忘れてしまったのを思い出しても、今はとにかく目の前の彼の勃起を治めることだけに集中した。  精液はどんどん薄くなり、白濁色から透明に近づいてきた。もう何十回も繰り返しているのだ。一年以上溜まっていたとはいえ、彼の限界が近づいている。  その限界は前触れもなく訪れた。  男は手を動かし続け、肩から指の先にかけて強い痺れを感じ、もう若くはないと思い知らされてふと笑いをこぼす。その直後に彼は何十回目の絶頂、そのまま姿勢を崩して後ろに倒れ込んだ。  ばたり、鈍い音が部屋に響く。男はあまりにも突然の出来事に反応が遅れたが、すぐに彼の状態を確認。  意識を失ってはいるが、息はしている。心臓は止まっていないし、瞳孔も問題ない。  静かに寝息をたてている彼の全身を確認してから、男も彼の隣に倒れ込んだ。肩から下の感覚がおかしい。酷使しすぎたのだ。明日からは、はたまた明後日からは両腕が使いものにならない痛みに耐えなければいけない。 「だが、少し、近づいた」  痛みに見合う手応えは手に入れた。男は無意識に口元を緩めて笑っている。
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