悪運の令嬢と死にかけ王子の結婚

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  第一章 亡霊王子 1  その日、男爵令嬢、セリル・アリードは最悪の手紙で始まった。  「親愛なるセリル。今日は悲しい知らせをしなければならない。残念なことに君と僕の婚約を解消したいと思う。君への愛はどうやら一時の気の迷いで、僕は真実の愛に目覚めてしまったようなんだ。君は美しく聡明だ。これからもよい縁談が舞い込むことだろう。幸運を祈っている。ニコラ」  と破談の詫び状が来たのだ。どうやら直接、家まで来る度胸も誠意もないらしい。しかし、セリルは狼狽えはしなかった。なぜなら、彼女が婚約を破棄されるのはこれが初めてではないからだ。  それでももちろん腹は立つ。 「ちょっと気晴らしに行ってきます!」  手紙を読み終わったセリルが、ドンとテーブルを叩いて立ち上がると、両親はコクコクと頷いた。セリルは慰められるのが一番きらいだと知っているし、泣いたりせずとも癇癪は起こすので気晴らしに出かけるのは、両親にとっても都合がよかったからだ。 「行きましょう!」  セリルの怒りは頂点に達していたので、侍女一人と扇子、パラソルだけを伴って馬車に乗った。  馬車に揺れ、しばらくすると怒りがなぜかだんだんとしぼんで傷心に変わる。婚約者のことは愛してはいなかった。ただ、いい条件なので、自分に釣り合う存在だと思っていた。こんなことがもう三度も続いている。一度目は、婚約者に愛人がいることが発覚して破談へ、二度目は相手の家族から反対され、三度目の今回は、どうやら別に「運命」を感じる人を見つけたらしい。  だから、セリル・アリードといえば、不運な令嬢で有名で、もはや彼女の行くところ雨ばかりが降ると噂されている。彼女を見ると、誰もが傘を持っていなかったことを悔やむというから滑稽だ。  しかし、それは事実ではないとセリルは思う。窓の向こうを見れば、雲の間に間から光が差し込み始めた。自分は雨女ではなく、晴れ女なのだ。そう胸を張って思う。  セリルは街を見回した。  街を歩く紳士はクラバットを結び、黒いジャケットを粋に着込んで帽子を被る。貴婦人たちは侍女を連れ、今年流行りのレースのついた色鮮やかなドレスと大きなリボンのついた帽子を被っていた。馬車がその横を通りすぎ、泥を弾いたので、お気に入りのドレスが汚れた令嬢が大騒ぎしているのは見物だった。  セリルはくくくと笑う。  隣にいる侍女は気味悪く思ったのか、身を縮め怯えた。もしかしたら主はショックのあまりに壊れてしまったのではないかと思われたかもしれない。侍女は恐れて一言も発さない。  ――絶対この破談は悪運なんかじゃなかった。あの男と結婚していたら幸せになれなかった。だから破談になったんだわ。  セリルは楽天的に考えるようにし、窓に映る自分を見た。大きな青い目に長い睫毛、金髪の髪は太陽に輝き、ふっくらとした唇、愛嬌のあるえくぼ。ファッションのセンスは抜群であるし、美人で有名だ。まだ十九歳で、チャンスはいくらでもある。家族の反対を説得することもできない、愚かな男に固執する理由はないし、ましてや他に運命をもつ男となどこちらからご免だ。  セリルはそう思うとようやく自分を立て直した。  そしていつもの彼女になる。気ままで、明るく、社交的な自分だ。扇子を開き、ひらひらとさせ、今日も出会った紳士を夢中にさせようと決意する。  馬車はゆっくりと港の脇にある公園に停まった。セリルは侍女にここで待つように命じた。本来なら一人で令嬢を歩かせるなどとんでもない話だが、今日のセリルの機嫌が最悪だと思っている侍女は黙って頷き、ほっとした様子を隠さなかった。  一人になったセリルは馬車から飛び降りる。泥濘みを跨ぎ、空を見れば快晴ではないか。春の陽は柔らかで、遠くに聞こえる波の音は爽やかだった。  公園の中央には、球体を持ち、東を指差す男の銅像がある。セリルはそれを目指して歩き出した。散歩は気晴らしであるが、純粋な運動でもある。セリルの足並みは速く、背を正して歩く。侍女と来るとこうはできない。淑女らしいゆっくりとした歩みで、腰の細さを強調して歩かなければならない。  ――今日は人が少ないようね……。  雨が止んだばかりなのもあって、公園にはそれほど人はいなかった。おかげでセリルはのんびりと燦めく陽射しを楽しめた。小さなパラソルを肩に傾け、再び自由となった独身生活を楽しみ始める。四十代くらい紳士三人が政治論議に夢中になりながら通り過ぎていったが、他にすれちがう貴族はいない。  思えば、今回、両親がすすめる縁談をなんとなく受け入れただけの婚約だった。これからはどこぞの令嬢やご婦人が楽しんでいるように恋をしてみるのもいい。ここまで破談が続くと、両親も難しいことを言わないだろう。少なくとも放蕩な母は自分のことで頭がいっぱいであるし、父は銀行業で金のことにしか考えていない。  セリルは再び空を見た。  大きく両手を広げて息を吸う。雨上がりのいい香が漂って、鬱々としていた気分は静かに晴れ始めた。  ――うん?  その時、なにかをセリルは足に踏んだ。 「金のペンダント?」  金のロケットに鎖がついたもので、高価なものだ。拾い上げて裏面を見れば、王冠をした双竜が描かれた王家の紋章が入っているではないか。  セリルは思わず左右を見た。  新聞を手にする物乞いに、だれかの侍女らしき中年の女、ベンチで本を読む一般市民の男性、落としたと思われる人物はいない。先ほど通り過ぎた紳士にも王家に関わる人物はいなそうだった。  セリルは拾ったペンダントを持て余した。 「どうしよう……」  当然、持ち主に届けるべきではあるが、王家の紋章が入っているだけでだれのものとは分からない。ゆらゆらと目の前で揺らして、面倒事はゴメンだとセリルは思う。拾って感謝されればいいが、盗んだなどと言われたら名誉にも関わる。 「ここに置いておこう。なくしたことに気づけば探しにくるでしょ」  セリルは青銅の台の上にそれをそっと置こうとした――、 「拾ったぞ! 行け!」  だれかのかけ声が生け垣から聞こえたかと思うと、わっと男たちが現れた。かと思うと、一斉にセリルの方へと走ってくる。気が強く、機転の利く性格のセリルではあるが、なにが起こっているの分からず――もっといえば、それが自分に起こっているのかも分からず――その場で固まってしまった。  そこに猛スピードで馬車が横付けされた。  男たちはハンカチをセリルの口に当てて羽交い締めにすると、そのまま馬車に引きずり込もうとする。セリルは足をばたつかせてもがいた。しかし、彼女は平均的な令嬢たちより少しばかり背が低く、体も豊満な方ではなかった。全力で抗ったけれど、そのまま馬車に乗せられてしまう。 「助けて!」  セリルはその場にいた傍観者たちに叫んだ。だが、どうやら仲間だったようだ。男たちがセリルを馬車に乗せ終えると、物乞いに扮した男がドアを二度叩く。すると馬車は来た時と同じように猛烈な速さで公園を駆け抜けて行った。  セリルは忙しく瞳だけ左右に揺らして状況を把握しようとした。が、ハンカチを強く押しつけられれば、無理して細くしようときつく締めてあったコルセットと相まって苦しくて気が遠くなる。  ――助けて!  声にでない叫びだけが馬車の中で響いた。    セリルが目を覚ました時、そこは知らない大きな寝台の上だった。暗闇に慣れ、ようやくそこが、マホガニーの中世的などっしりとした天蓋付きの寝台で、赤いビロードの帳が回らされている。 「ここは……どこ?」  セリルはパニックになりそうな胸を右手で押さえて、呼吸を落ち着かせると、帳を少しめくった。カーテンが閉じられているが、まだ昼なのだろう。隙間から光が差し込み、豪奢な部屋が見えた。  床には東方の折りが重厚で細かな細工がされている絨毯が敷かれ、猫足のチェストは華奢な曲線を描いていた。チェストの壁に大きな鏡があり、ダリアの花が飾られた白磁がある。置き時計があるのか、カチカチと時を刻む音もした。  セリルは時間を見ようとゆっくりと起き上がり、そっと裸足の足先を床につけた。大理石がひやりとして、親指をぴくりとさせるが、更に帳をめくる。そして部屋を見回し、大きなクリスタルのシャンデリアのついた天井に天上世界を描いた神々や天使が描かれているのを見つけると、ここがどこであるか更に不安になった。  セリルの家は都でも有数の裕福な一族であるが、ここまで豪華ではない。趣味の良さや歴史漂う調度品の数々から、成金などではなく大貴族の屋敷であることは間違いなかった。  セリルは立ち上がる。数歩行き、ふと見ると、部屋の隅にある深緑の絹張りの肘掛け椅子に頭を抱えて座っている男がいた。セリルは遠慮がちに声を掛けた。 「あの」 「…………」 「あの!」  男がゆっくりと顔を上げた。肩ぐらいまであるブラウンの髪に緑の目が印象的な美男子だ。品のある貌と頭の良さそうな整った顔付きをしていた。おそらくセリルと同じか少し上くらいの青年だろう。指が長く整っている。貴族なのは間違いない。しかし、彼は奇妙な問いをする。 「君……もしかして……俺に聞いているのか」 「え、ええ……そうです……」  他に人はいないのにとセリルは部屋を見渡したが、やはり二人だけだ。なにを男が驚いているのか理解できなかった――が、そんなことは今はどうでもいい。聞かなければならないことはいくらでもあった。 「ここはどこですか?」  男は立ち上がる。百八十センチはある。エレガントな歩き方をし、解いたクラバットを肩に掛けていた。精悍な体つきと体幹のよさそうな雰囲気はなにかスポーツをしていそうだ。 「もしかして、俺が見えるのか」 「見える? え、ええ……もちろん」  見える? 馬鹿な質問だ。意味が分からず、セリルは首を傾げる。二人の目はしっかり合っていて、なにを聞いているのか分からない。彼はセリルに少し近づくと、もう一歩出しかけた足を引っ込めた。 「ここはどこですか」  少し苛立ちと不安を込めてセリルは男に言った。そして自分の肩を手のひらでさすった。  やけに寒いのは、春先とはいえ、まだ冷えるこの季節に暖炉に薪がくべられていないからだ。 これだけ豪華な家なのに、なぜ火を焚かないのだろうか。  セリルは自分の服を目で探したが、あるのは薄いこの白い寝衣だけだった。 「ブランケットでよければ、そのチェストに入っている」  男が引きだしを指差した。  どうやら、彼が部屋の主のようだ。柔らかいウールのブランケットが彼が言った通り、チェストの中にあり、セリルは肩に掛け、いぶかしげに青年を見た。 「ここはどこですか……わたし……公園でさらわれて、それで……それで――」  頭を抱えるのは混乱したからだけではない。なにか薬品を嗅がされて頭痛がするからだ。青年が心配そうにセリルの顔を覗き込んだ。 「大丈夫か」 「え……ええ……まぁ……大丈夫……です」  全く大丈夫ではない。しかし、大丈夫かと聞かれると大丈夫だと答えてしまうから不思議だ。 セリルはチェストに手を掛け、体重を支えるとその場に座り込んだが、すぐに気を取り直して立ち上がり、顎を上げた。  弱っていると思われたくなかった。特に、こんなよくわからない状況では――。 「君はだれ?」  今度は青年の方が訊ねる。  セリルが彼をにらみ付けた。こんな時ではあるが、紳士が名乗らずに淑女に名前を聞くのは無礼である。最低限の礼儀はわきまえてほしかった。  男はすぐに慌てて両手を振った。どうやら彼の方も混乱しているらしかった。 「俺は、アル」  セリルは自分も名乗るべきか悩んだが、どうみても彼が誘拐犯には見えなかった。どちらかというと彼も被害者に見えた。どんな事情なのか、この男から聞き出さなければならないし、いつまでも無言でいるわけにもいかない。セリルはぶっきらぼうに言った。 「わたしはセリル・アリード」 「よろしく、セリル」  しかし、彼は近づいてセリルの手に接吻しようとはしなかった。上流階級の人間に見えるのに、挨拶もろくにしないアルにセリルは平素なら腹を立てるが、今はどうやったら家に帰れるかの方が重要だ。小さな問題に目くじらを立てている場合ではない。 「それで、ええっとアル? ここはどこですか」  彼は吐息をついた。 「ここは俺の寝室だよ」  セリルは一歩、彼から離れ、腕を胸の前を交差した。 「そ、それで……な、なんでわたしはここに連れて来られたんですか……」  アルはなだめるように両手を上下させながら、ゆっくりと彼女が安全だと思える距離まで後退し、元いた肘掛け椅子の前に立つ。 「誤解しないでほしい。俺が連れて来たんじゃない」 「じゃ……だれが、なんのために……わたしなんかを……今はいつで、どうやってここに――」  セリルは側にあったカーテンをぎゅっと握って狼狽を隠した。アルは彼女をこれ以上刺激しないようにか、柔らかな声で言う。 「落ち着いて聞いて欲しい」 「わたしは落ち着いている。落ち着いているわ! いつも通りよ」 「とてもそうは見えない」  セリルは憤慨した。 「だれだって攫われて知らない男の寝台で目が覚めたらこうなるでしょう! でも、わたしはその状況にしては落ち着いている。そういうことよ!」  アルは黙って頷いた。  セリルも話の続きを求めて頷き返す。 「アル、それでわたしはどうしてあなたの寝室にいるわけ?」  彼は低い声となった。 「君は俺の花嫁に選ばれたんだ」  セリルは大きく目を見開いた。
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