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3章 結婚の無効
1
「セリルは我が唯一の妻だ」
「しかし、教会はそのように考えておりません。二人とも意識のないときに結婚したのですから、無効とするのが妥当だと考えられます」
伯爵の一人が皆を代表するように言い、貴族達が頷いた。
「何度も言わせるな。セリルだけがわが妻だ」
アルはそう断言すると、セリルの腕を掴んで大股で長い廊下を去っていく。
セリルはただそれに従うだけだった。悲しみも怒りも、どこか自分のことでないような気がするほど、疲れていた。
「セリル」
アルはバタンと後ろ手でドアを閉めてからセリルの両手を掴んだ。
「セリル」
「……聞いているわ……」
「俺の妻は君だけだ。そう前も誓ったし、これからも誓いを破らない」
「わかっている……あなたの言うことは……」
「まわりがなんて言おうが、俺たちは運命でこうして出会ったんだ。君なくして俺は体や魂だけじゃない。心さえも引き裂かれてしまう」
「アル……」
「だから、なにも心配しないでくれ。ぜったいに俺は折れないから」
セリルは頷いた。いつの間にか、アルと共にいるのが当たり前になっている。魂云々ではなく、彼女もアルの横にいたかった。ならば、つまらない他人の言葉で一々傷つくのは辞めよう、どっしりと構えていればいい――そうセリルは覚悟した。
しかし、そんな決意もすぐにくじけてしまう。なぜなら、廊下の前からはアルと噂になったことのあるエリア伯爵令嬢が最先端の装いで取り巻きを引きつけて現れたのだから。彼女はちらりとセリルを見るも、ふんという顔をしただけで笑顔をアルに向けた。
「アル!」
「…………」
「王太子殿下のことはお悔やみ申し上げますわ」
わざとらしい涙をハンカチで拭く。そして蠱惑の瞳で扇子の向こうからアルを見る。
「具合を悪くしていたと聞いて心配で眠れなかったのよ。目の下に隈ができてしまった。どうしてくれて?」
アルは厄介なという顔をしたが、父親が有力貴族であれば、王子といってもぞんざいな口をエリア嬢に言えない。もっとも、死ぬ前はいい関係であったなら尚更だ。彼は少々動揺気味にセシルの背に自分の手を置いた。
「エリア嬢。これは我が妃のセリルだ。セリル。こちらは――」
「知っているわ。エリア嬢。何度かお会いしたことがあるわ。ごきげんよう」
「あら? そんなことあったかしら? 記憶になくってよ?」
嫌な女だとセリルは思う。こちらは王子の妃だというのに、しがない男爵令嬢扱い。結婚を認めていないと態度で示していた。しかし、アルは誓った通り、かつての恋人の前でも屈しなかった。
「無礼は許さないよ、エリア嬢。セリルは我が妃だ」
「教会はそう思っていないと聞きましてよ? 殿下」
「教会さえも運命の俺たちを分かつことはできない」
「まぁ、ロマンチック。でも、よくお考えになって? 爵位を買って貴族になったような一族の娘より、私の方が妃にふさわしいでしょう? それは否定なさらないで?」
エリアは強気で自分が望めば全てが手に入ると思っているタイプの令嬢だ。確かに、今までずっとそうだっただろう。取り巻きはたくさんいて、美しい宝石とドレスに囲まれている。身分も高く求婚者はひっきりなし。王子との噂話が勲章のように彼女の胸に輝いて、その華々しい経歴を彩っていた。
「エリア」
アルが喉の奥から出すような苦しい声を出した。
「たしかに、セリルより君の方が妃にふさわしいだろう」
エリア嬢は鼻をツンとさせてセリルを得意げに見た。
「しかし、俺にふさわしいのはセリルなんだ。君は常に妃になりたがってた。俺の妻ではなく、王子の妻に――」
エリア嬢は心外だとばかりにアルを見る。
「私が殿下を愛していないとでも?」
「ならどうしてそんなに恋心が都のあちこちにあるんだ。どこぞの侯爵子息やら、美男で有名な子爵やらと恋愛を楽しんでいるのを俺が知らないとでも?」
「そ、それは――」
「俺も人のことは言えなかった。だから言い連ねることはなかった。でも、誰が俺にふさわしいかと言えば、セリルしかいない。君と結婚するつもりは毛頭ない」
「ア、アル……」
エリアは真っ青な顔になったが、もうアルは気遣うことはなかった。
「行こう、セリル」
「あ……うん……」
アルはそのまま振り返らずに進んだが、セリルは一度だけ振り向いた。エリアの憎悪の目には涙があったが、悲しみというより屈辱に染まっているように見えた。
「いいの? 付き合っていたんでしょう?」
「エリアは妃になりたかっただけだし、他の貴族ともいい仲だった。遊びだったから、俺にも責任があるけれど、それならそれでいいと思っていた。でも、俺には今は守るべき人がいる。誰もセリルを傷つけることを許さない」
エリアの心がじいんとした。胸に手を当てて、足を止めた。
「正直、エリア嬢には不快な気分にさせられた」
アルがセリルを見る。
「でも――あなたの言葉で帳消し。なんかすごく愛されている気分」
「事実、愛してる」
「勇気があるのね。こんな状況でそんなことを言うなんて」
「一回死んでいるから、怖いものなんかないさ」
セリルは微笑み、アルの背にある美しい絵画に目を向けた。ブロンドでグリーンの瞳を持つ女性が扇子を片手に微笑している絵だ。真っ白な肌は陶器のようで見ていると吸い込まれてしまいそうになる。
「これは?」
「あ、ああ……母上の肖像画だよ。兄上が書いた。俺は覚えていないからね」
「そう……色白の人だったのね」
セリルとアルは見上げるほどの大きさの絵の前に立つ。黙って手をつなぎ、指を絡める。
「ファン王太子の部屋にも先の王妃の肖像画があったわね」
「ああ。兄上の好きな題材だ」
「それにしても、綺麗な白。あんな肌になれたらいいのに――」
そこまで言ってアルがはっとした。
「そうだ! そうなんだ!」
「え?」
「リンズ卿を探さないと!」
「な、なんで?」
「絵だよ、絵!」
「なにが?」
「早く、セリル!」
セリルはアルに手を引かれたまま、赤いカーペットが引かれ、大きなシャンデリアが吊された階段を滑るように下りた。
「リンズ卿!」
アルが叫んだ。
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