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「は、花嫁?」
セリルはさらに二歩後ろに下がった。
――なにを言っているのよ。今、初めて会って、プロポーズもされていないのに、花嫁? しかも選ばれた?
そんな上から目線で言われる話ではない。
セリルは訝る目でアルを見る。彼もまたこの状況に混乱しているのか、髪を右手でかき分け、緑の目でこちらを見て、頭を掻く。美男の髪はもうハチャメチャだ。
「なんと説明したらいいのか分からない……そもそもなんで君は俺が見えるんだ」
それは独り言なのか、セリルに対する問いなのか。彼女は羽織っているブランケットを更に引き寄せて彼を窺う。
「その……初めから話してくれませんか? なにがなんだかさっぱり分からない」
「あ、ああ」
ようやくそれで、論理的に話をしないといけないことに気づいた様子のアルは、自分の近くにあった長椅子を叩く。そこに座れということだ。
セリルはしぶしぶ座り、膝を抱えて身を縮めた。淑女らしさなど今は必要ない。
「あれは五日前のことだ」
アルはカーペットの上を行ったり来たりしながら、身振りを交えて話し出した。
「宮殿で晩餐会があったんだ」
「…………」
「いつもとなんら変わらない。父上と母上、兄の王太子と弟の第三王子がいて――」
「ちょっと待ってください!」
セリルが片手を上げて話を止める。
「宮殿で晩餐会ってなに? どういうこと?」
「あ、知らないのか。そういえば、会ったことのない顔だな……俺はこの国の二番目の王子だ」
セリルは卒倒しそうになって額に手を当てた。アルとは第二王子、アルフレードのことだったのだ。王族の顔など見たことのなかったセリルは知らなかったが、名前くらいは知っている。 数々の浮き名を流し、カードゲームを「嗜む」刹那主義の気ままな「風流人」の王子さま。憧れの的でありながら、一夜の夢しか誰にも与えてはくれない独身主義者。それが、アルフレード殿下のお噂だ。
とはいえ、セリルはしがない男爵の娘でしかない。雲上の殿下にため口をきいていたのは無礼千万である。父母に知られればどやされ、王家からはお叱りを受けることになるかもしれない。セリルは慌てて居住まいを正すと、言葉を選び、優雅なゆっくりとした口調で微笑んだ。
「どうぞ、お続けになってくださいませ、殿下」
アルは身震いした。
「いや、今更、そんな話し方をしてくれなくていい。なんというか俺たちはこの状況を打破しなければならない同士なんだ。言葉遣いなんて気遣っている場合ではないんだ」
そう言われても、男爵家の名誉にも関わる。にこりとよそ行きの笑みを浮かべて、焦る自分を隠した彼女にアルは、どうでもいいという顔をして続けた。
「庭を散策している時に、何者かに後ろから襲われ、地面に倒れた。医者が呼ばれたが、気を失って……気づいたらここにいた」
「まぁ、それなら殿下。お医者さまを呼んだらいかがでしょう。わたくしがお邪魔するのはなんですわ。このあたりで失礼いたします」
セリルは寝衣の端を掴んでお辞儀する。だが、アルは「待て」と彼女を制す。
「話はこれからだ、セリル嬢」
「なんでしょう」
「俺は三日日前からここにいる」
「ええ」
「それで……昨日のことだ。うーん、なんというか、言いづらいのだが……その、なんだ、あれだ」
癖なのだろう。ハンサムな王子さまはまた髪をかき上げる。上品でありながら色っぽい仕草であるのに彼は気づいているのだろうか。でも人を攫うような人物に惹かれるほど、セリルは馬鹿ではない。微笑みながらだんだんとイライラし始める。
「なんていうか……その……俺は――俺は……その――その……」
「だからなんなんですか。早く言ってください!」
せっぱ詰まった状況なのに、気の長い話し方をする人にセリルはうんざりし出した。
彼女の喧嘩っ早さでは家族でも右に出るものはおらず、莫大な持参金と美貌を持ち合わせながら、紳士たちが少々尻込みするのは、その性格にあった。
王子もぴくりして目をまん丸にさせたが、セリルが早く続きを言えと急かすように手をくるくる回すので、再び話し始める。
「俺は死んだんだ。昨夜」
「はい?」
「だから昨夜、俺は死んだんだ」
セリルは持っていない扇の代わりに手のひらをひらひらさせて唇を隠して笑った。
「なにを言っているのか分かりませんわ。目の前でピンピンしているではありませんか、殿下。おからかいにならないで」
「それがそうでもないんだ」
セリルは、王子は倒れた時に頭をぶつけたか、あるいはワインを少々飲み過ぎているのだと思った。
わざとらしいため息をついたのは、そういう馬鹿馬鹿しい冗談には付き合いきれないという意思を表すためで、淑女に失礼ではないかと言外に言うためだった。アルももちろん、それに気づいた様子だが、セリルの前に立つ。
「Voir, c‘est croire(百聞は一見に如かず)っていうだろう?」
「…………」
嫌な予感がセリルはした。アルは顎で先ほどまでセリルが先ほど寝ていた寝台を差す。
「な、なんですか?」
「見てみれば分かる」
「……見ればって――」
セリルの第六感が近づくなと言っていたけれど、怖がっているとは思われたくない。顎を上げると、片足ずつ寝台に近づく。そしてビロードの帳を掴む。アルが更に顎をしゃくった。その中を見ろということだ。
セリルは大きく息を吸うとさっと帳を開ける。寝台の右半分は乱れていたが、左半分は整っていた。三、四人が寝ても平気なほどの大きさの寝台にセリルは身を乗り出すようにして中を見た。すると――。
「わっ!」
そこには青白い顔の男性が横たわっているではないか。呼吸している様子は一切無く、ぴくりともしない。
「し、死んでる! わ、わたし、この死体と一緒に寝ていたわけ⁈」
セリルは悪寒が走った背中にぶるりと身を震わせた。なるほど、それだから寒いのに暖炉に火が焚かれていないのだ。死体が腐敗しないようにするために――。
「家に帰りたい。お願い、家に帰して!」
セリルはわけが分からないまま、神に祈るように手を合わせてアルに懇願した。しかし、懇願しているのは彼の瞳の方だった。
「頼むから落ち着いてくれ、セリル。そして、その死体の顔をよく見てくれ」
「嫌よ! そんなの……呪われてしまうかも! そもそも安らかに眠っている人を起こすなんて死への冒涜だわ! そうでしょ⁈」
ここまで来ると相手が王子かどうかなど関係ない。言葉遣いも忘れてしまう。
「呪われないし、冒涜でもない。さあ、早く。君はこの問題を甘く見ている」
セリルは涙目になった。
こんなことなら、一人で公園を散歩などするのではなかった。銀行家の娘らしく、父がいつも注意するように屈強な男どもに警護されて生活すべきだったし、公園などではなくドレスを作りに行けば良かったのだ。それなのに、王子だと名乗る青年から、早く早くと急かされて、セリルは震える指先で死体の顔を覗き込まされる。セリルは目を瞑り、ぱっとそれを片目ずつ開いた。
ゆっくりと片目ずつ開けた瞳――。
「あ、アルフレード王子?」
目の前の青白い顔の死体は、目の前のアルとそっくりだった。実は、双子だったということか。セリルは二人の顔を見比べた。
「よく似ているご兄弟ですね、殿下。一卵性双胎児だったとは知らなかったです。お悔やみ申し上げます」
アルがため息をつく。
「それは兄弟じゃない。俺自身だ」
「あなた自身? でも――」
セリルは二人を再び見比べる。
「嫌だわ、ブランデーはあるかしら? わたし、今日はなんだか疲れているみたい」
「…………」
笑ったセリルにアルは顔を近づけた。
「冗談じゃない。俺は死んだんだ。それは死体で、これは霊魂」
「霊魂。霊魂って見えないんじゃないですか? こんなにはっきりと話しているのに冗談はおやめになって」
セリルの話し方はめちゃくちゃだ。なにかを気づきつつある自分を必死に否定しようとした。死体、死体にそっくりな男。宮殿、人さらい。しゃべる男は自分を霊だという。
「信じないのなら俺を触ってみてくれ。そうしたら本当か嘘か分かるだろう」
セリルは手を胸の前で握りしめたまま彼から離れようとしたが、アルは彼女に手を差し出した。
「触れられるかやってみてほしい。俺はなにも掴めない」
アルの真剣な顔に、セリルはそっと手を彼に向けた。重なり合いそうになった指先と指先。しかし、それはなんの感覚もなく通り過ぎた。
「え?」
驚いたセリルはすぐにアルの腕を掴もうとした。しかし、やはり霞のように消え去り、触れることさえできなかった。
「え、え、ええ⁈」
セリルは慌てた。
――考えるのよ、セリル。考えるの。
冷静になろうとすればするほど、彼女は焦った。
「セリル、お願いだ。俺を助けてくれ」
アルが迫り、セリルを壁へと追い込んだ。
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