悪運の令嬢と死にかけ王子の結婚

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3 「俺は体から六フィート以上の距離から離れられない。このまま体が埋葬されてしまったら、魂の俺も地下に封印されてしまう。これもなにかの縁だ。お願いだ。助けてくれ」  アルはセリルの手を握ろうとしたけれど、もちろん、それは透けて感覚はない。  セリルは部屋の隅に置かれていたブランデーを華奢なグラスに入れると、ぐいと飲み干した。  ――こんなことってある? いいえ。たぶん、わたしは夢を見ているの。王子さまが幽霊で、死体がそこにあってわたしはその花嫁なんて絶対にあり得ないじゃない。そもそも王子さまが目の前にいるのだっておかしいもの。  しかし、熱いアルコールが喉元を通り過ぎても、懇願の眼差しをする幽霊はまだそこにいた。 「この部屋には医師も両親も侍女も従者も入って来た。なのにだれも俺のことを見えない。君を除いて」 「わたしだって霊感なんてないです。一度も霊なんて見たこともない」 「俺だってそうさ。それなのに霊になっている!」  幽霊と言えば、物陰からこちらを見ているとか、暗闇からさっと現れるとか、後ろからついてくるとかそういうものだとばかりセリルは思っていた。しかし、目の前にいる幽霊は生きているがごとくはっきりと見え、人間らしい口調で話す。セリルは激しく鼓動する胸を押さえ、呼吸を整えると、死体を指差した。 「とりあえず、ここに寝てみてください。体と魂が一致するかも」 「そんなことはとっくに試した」 「いいからやってみてください。お願いします……」  アルはため息交じりに自分の死体に近づくとその上に寝てみる。しかし、二人の形は一致しただけでアルが体に戻ることはなかった。死体に重なったまま、アルがこちらを見た。 「分かっただろ」  アルは起き上がり、癖なのだろう。自分のジャケットを直す仕草をした。 「どうしたらいいんでしょうか?」  逆にセリルが尋ねる。 「どうしたらいいのかなんて俺が分かったら、とっくにやっている。それにセリル。丁寧な言葉で話さなくていい。俺たちは夫婦だ」 「誰が夫婦よ!」 「既に大聖堂で結婚式が行われた」 「わたしが気を失っているうちに⁈」 「ああ、俺が死んでいる時に……」 「なんてこと!」  セリルは気を失うような人間ではないが眩暈がした。 「だから、おれは一蓮托生(On est dans le même bateau)なんだ」  セリルはカーテンをぱっとめくってみた。宮殿の前庭があり、大きな噴水から水が溢れていた。いつも鉄の柵の外から見ている光景が、今日は宮殿の中から見えた。彼女は空を見上げ、すでに落陽が西に傾こうとしているのを見ると不安になった。夜が近い。セリルは焦り、アルを見る。 「もしかして、わたしを殺して殉葬させようとしないですよね?」 「殉葬? まさか……でも……」 「でも……な、なんですか」 「まったくそういう事例がないわけではない。かつて我が国で妻を殉葬したという歴史はある。あ、でも、心配するな、百年も前のことだ」 「たった百年前⁈」  セリルは慌て、焦った。汗が額から出てくる。腕でそれを拭い、落ち着こうともう一口ブランデーをさらに口にする。 「ああぁ。物語だったら、愛する人の接吻をきっかけに生き返るとかあるのに……」  アルがぽんと手を叩く。 「それだ! それに違いない!」  セリルがブランデーを右手に、左手を腰に当てて睨んだ。 「言ったでしょう。『愛する人』って。わたしたち、今日初めて会ったばかりだし、愛し合ってなどいない。それも物語の話よ。物語のね」  セリルの言葉にアルが慌てて跪く。 「セリル。愛している。君だけを一生愛すると誓う」  使い慣れた台詞に聞こえた。都中の貴婦人たちをそうやって口説いてきたのは目に見えている。セリルはうさんくさいと彼を斜めに見上げたが、アルは真剣だった。 「とにかく思いつくことはなんでもやってみようじゃないか。お互い、死にたくはないだろ」  それはその通りだ。セリルは今日、何度目かの大きなため息をした。 「初めての接吻が霊なんて最悪」 「とても名誉なことだよ、セリル嬢」  アルが大きく腕を広げる。  ――ああ、もうどうにでもなれよ。  殉葬などとんでもない。まだ花の十九歳。夢もあれば未来もある。結婚もしていないし、読んでいる小説の続きも気になる。今、死ぬわけにはいかなかった。 「分かったわ……」  彼女は目を瞑り、顎を上げた。アルの気配がし、唇は――重ならない。当然だ。相手は霊で透けている。 「やっぱりだめね」  セリルは腕を組むと肘掛け椅子にどすりと座った。しかし、アルは諦めない。彼は椅子の前で中腰になり、セリルと目の高さを合わせると言った。 「きっと霊だからだ」 「なにが言いたいの」 「俺の本体にキ――」 「冗談止めて!」  セリルはアルの言葉を遮る。死体にキスなどとんでもない。死んでもごめんだ。文字通りではないけれど……。 「物語だってそうだろう? 死んだ恋人の体にキスをして涙を流すんだ。すると、死んだ恋人は生き返る」 「それは死んですぐの話でしょう。あなたのは昨日死んでるのよ」   ちらりと寝台の方に視線をやれば、死体の顔は真っ青で唇は紫だ。ぴくりともしない死体に愛してもいないのに接吻などしたら、きっと吐いてしまう。セリルは断固拒否する。 「とにかく、やれることはやろうという話だっただろう。君だって死にたくないんだ。明日には僕の死体に並んでいるかもしれないんだぞ」  セリルはぶるりとする。王家は横暴で、しょせん男爵の娘でしかないセリルなどどうとでもなると思っているかもしれない。そして現にそうする権力を有していた。 「セリル……」 「分かったわよ、分かった。やればいいんでしょう! やれば!」  もう相手が王子など気を遣わない。セリルは寝台で眠る男の側におっかなびっくり進み、顔を見下ろした。確かに美男子だ。皆が騒ぐだけのことはある。しかし死んだらその魅力は十分の一にも満たない。 「セリル」  後ろから、アルが急かす。  気が強いセリルは怖いなどと言えなくて、ピンと背中を正してから、及び腰で一歩死体に近づいた。 「一瞬だからね」 「ああ。一瞬でいい」  セリルは両手の拳を強く握り、宙に浮かしたまま、身を屈め、目をぎゅっと瞑ると、ぱっと本当に一瞬だけ唇を重ねた。唇は冷たく、死後硬直はなぜかなかったが、気持ちよい感覚ではなかった。セリルは唇を必死に袖で拭って泣きそうになった。そして文句を言ってやろうと振り返る。 「ア、アルフレード殿下?」  しかし、彼はどこにもいない。 「殿下……」  セリルは両手を強く握り締めた。 「アル?」  部屋はしんとし、時計の音以外なにもしなかった。セリルはさらに広い部屋を見渡した。豪華な王子の寝室は美しい青い壁紙に囲まれ、花が花瓶に生けられていたけれど、日没が近く、カーテンからもれる闇の色は影を作って斜めに部屋を昏くしていた。 「アル? いないの? アル、ねぇ、アルったら……」  しかし、気配を感じた。はっと振り向くと、死体がにょきっと体を起こしたではないか。 「ここだよ、セリル!」  死体がセリルに微笑みかけた。
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