第1章 黒い来訪者

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第1章 黒い来訪者

 家族はいない、仲間もいない。わたしはいずれ消えてゆく運命。  わたしは、この森で最後の──  戦火を抜け、少女はオレンジに染まった大地を高台から見下ろした。  火の粉が舞い飛ぶ空、燃え落ちる木々と家。自分が育った森が燃えている。  棲み家を追われ、気づけばここまで来た。だが逃げて来たのではない、ただ生き残っただけだ。  ほおには荊で切った傷、手には火傷の跡もある。    それでも、これまでに受けた仕打ちに比べればましだった。 「(まき)ひろいにいつまでかかっている!」  思い出すのは、自分に向けられる罵声ばかりだ。  カバノキの枝鞭で打たれた背中の皮膚が裂け、集めた割木が床に散らばる。 「夕食に間にあわないだろ!」  少女は黙って立ち上がり、窯に焚き木を放り込み、形成しておいたパンを並べた。 「つまみ食いするんじゃないよ」 「そんなこと……」 「どうだか。お前の母親は森の民でありながら、村の男に手を出した卑しい女だ」 「違います、母さまは──」    言い終えないうちに、今度は太い平手が飛んで来る。 「何が違うって? その結果お前が生まれているじゃないか、穢らわしい! 我らの誇りに泥を塗りおって」    (まき)に生木が混じっていたらしい。煙がしみて涙が出た。  女中頭は少女がべそをかいたと思ったようで、フンと鼻を鳴らし台所を去って行く。    少女は、泣いたことがなかった。  表情の読めない瞳はいつも乾ききっており、かわいげがないとみな嘲笑った。端的な言葉遣いは強がりと見なされ、なおさらまわりを苛立たせた。  両親はとうにいない。  母親が彼女に残したものは、くるみの木で作ったスプーン一本だった。    森の民と呼ばれる種族の序例は血統で決まる。  しかし少女は二つの血を引く忌み子であり、雇われていた家では下僕のように虐げられていた。  混ざりものの血は不吉だと疎まれ、顔を上げれば生意気だと鞭打たれる。誰も味方はいなかった。  少女は常に傷だらけで、首や背中の皮膚は醜く引き攣れていた。    あの大切にしていたスプーンさえ、今はない。  それからどうしたのだっけ、それから……?    そんな生い立ちが過ぎった一寸、突如一本の火矢が背後の木に刺さった。となりあう火は輪のようにつながって、あっという間に少女を囲む。 (ここで終わりなんだ)  もとより、生への執着もなかった。まだ十六年しか生きていないのに、老年のようにひどく疲れていた。  それでも、 (ひとりで死ぬのは怖い──)  そんな恐怖が身を走ったとき、炎の向こうから声がした。白い修道服の女性が、荊の茂みから手をさしのべている。  少女はついに天使が迎えに来たと思ったが、女性は煤に汚れた顔で笑って言った。 「大丈夫、こんな茶番はじき終わるわ」  彼女の言った通り、それから日をおかず戦いは終結した。長きにわたる征服戦争は、いくつもの森が蹂躙され、侵略者が勝利を収めた。  女性はある古い教会の女司教でリリウムといった。容姿は美しくおおらかで、村人に聖女と呼ばれ敬われていた。 「死後の世界に地獄はありません」  そうやさしく説く彼女の声は子守唄のようで、ミサはいつも満員だった。  リリウムに引き取られ寝食をともにすることとなり、少女の生活は一転した。    その頃村では、猟奇殺人という不穏な事件が囁かれていたが、同族にすら家畜のように扱われていた以前と比べれば、少女にとってはおだやかな日々だった。    清貧を戒律とする教会の質素な暮らしでも、初めてお腹いっぱい食事をし、初めて安心して眠ることができたため、髪や肌は少女本来の生気が甦り、ひび割れていたくちびるにもさくらんぼのようなつやがもどった。   ふし目がちな瞳はまっすぐ見つめれば大きくて、翠玉(エメラルド)の輝きを放った。 「これを使いなさいな」  少女はリリウムから髪と同じ色の緋色のヴェールをもらい、自分も修道女として働いた。読み書きを教わり、ときには聖書の教義についても勉強した。    仕事は教会の掃除や(まき)割り、飼っている山羊の世話などが主だったが、完璧にこなせなくても、今までのように怒鳴られることはなかった。  なんの干渉もなく自由にさせてもらったので、少女は裏の小さな畑を使い、農作物や草花を育てるのに勤しんだ。  とりわけ森でもなじみだった薬草作りは楽しく、毎日はこの上なく満たされていた。    リリウムは鷹揚にやさしく、何もがまんすることも無理をすることもないと少女に言い聞かせ、かわいがってくれた。  ただ二つ、人前では決してヴェールを取らぬよう、地下の酒蔵(カーヴ)はノミの巣のため入らぬよう言いわたされていた。    そんな、ある夜のこと──  司祭館の一階で眠る少女は、小さな物音で目を覚ました。  早朝の祈り(プライム)にはまだ早いが、信者が教会へ来たのかもしれないと、急いでヴェールをかぶる。    ろうそくを灯すと、ベッドわきに影をゆらめかせ女司教が立っていた。 「びっくりした……リリウムさま」 「ごめんなさい、起こしちゃったのね」  申しわけなさそうに笑うリリウムは、何も、夜着も下着すらも身につけていなかった。  こんな時間に沐浴でもするのだろうか。 「ど、どうされたのですか、その格好……」 「どうせ汚れちゃうと思って」  うふっと意味ありげに微笑むと、リリウムは少女のほおにそっとふれた。  右手には、なぜか(まき)割り用の斧が鈍い光を放っている。 「若い子はやっぱりきれい。肌も、きっと中身も……」 「……リリウムさま?」 「眠っていれば、怖い夢を見ずにすんだのに」  何を言っているのかよくわからない。    だが、女司教の目が熾火のように熱を持ち斧が高く上がったとき、少女は村で聞いた事件を思い出した。 「死後に地獄がないっていうのはね──」 (まさか──) 「この世が地獄だからよ!」 「!」    少女の顔に血しぶきが降る。  が、白い胸を朱く散らせたのは、リリウムのほうだった。  背後から己を貫く剣先に、彼女は剣の持ち主を驚きと怒りの形相で見返る。  戸口に立つのは、黒いフードに黒いマントの男。全身黒ずくめで、剣が大鎌なら死神のようだ。    男は剣を引き抜き、リリウムの躰を容赦なく蹴り飛ばした。大量の血がほとばしる裸身のまま、彼女は斧をふりかぶる。 「──おのれェ!」 「やはり既存の武器では効かぬか」    リリウムの一撃を剣で受けながら、男はマントの内側から何かを取り出し投げつけた。 「イノンド!」  ぱさり、と草束はリリウムに当たって落ちる。  何も起きない。 「イラクサ! ハシバミ! オトギリソウ!」  続けて手当たり次第に放るが、やはり相手は無反応だ。 「なんだ、書物にあったのと違うな」  つまらなそうにつぶやく男に、この状況下で何がしたいんだと、少女は恐怖で青ざめながらも怪訝に男を見た。 「からかってるのか、貴様!」  もはや聖職者とは思えぬ雑言を吐き、リリウムは男目がけて突進して来た。  鈍い音を立てて近接戦が始まった。  一回り以上体格差のある男の剣も、彼女は重量のある斧で受け流す。もう常人でないのは明らかだ。    いつからこうなったのか。それとも、もともとヒトではなかったのか。  間断ない斧撃に見舞わられ、男も苦戦していた。激しくぶつかりあう二つの刃、重い衝撃に床に軋む長靴(ブーツ)。    少女には何が起きているのかわからなかったが、この男が倒れたとき、自分もあの斧の餌食になることだけは理解できた。  ふたりのわきを四つん這いですり抜けて、司祭館裏の畑へ走る。作業小屋から曇りガラスの小壜(フラスコ)を取って来ると蓋を開け、力いっぱいリリウムへふった。 「──ぎゃあああっ!」  薄黄色の液体を頭からかぶり、司教は苦鳴をあげた。  しゅうしゅうと気体の立つ顔を覆った手のすき間から、赫い眼がのぞき少女は慄く。 「おのれ、助けてやった恩を忘れたか!」 「それを殺めるとは論理の破綻だ──月下聖剣(ソードオブルーナ)!」  破門宣告のように剣はふり下ろされる。  短い叫びとともに(やいば)が肩から中枢に届いたとき、その瞳孔は白く濁り、ようやく彼女は地に伏した。     少女はしばらく惚けてすわり込み声も出なかったが、  「大丈夫か」  派手に返り血を浴びた男に起こされたとたん、さらなる恐怖に相手を突き飛ばし、男が壁で頭を打ったごんという鈍い音で我に返った。
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