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三年前
1766年12月4日
雨のしつこい夜だった。
その日、千晶が働いている食堂には集団客が訪れた。
身なりの良い者から悪い者まで混ざる不思議な集団だ。どこからか「魔族共存」という言葉が聞こえてきたが、千晶にはよくわからなかった。
集団客は酒が回りすぎたのか、閉店時間を過ぎてもなかなか帰らなかった。
床に落ちたグラスや大量の食器を洗っている内に、気が付けば夜の九時を過ぎていた。
やっと帰れると店を出たが、少し離れた通りにはまだ例の集団がいた。固まって何やら熱く語り合っている。
給事中もやけに馴れ馴れしくされたことを覚えていた千晶は、連中に見つからないようにわざと遠回りをして帰った。
途中で激しい雨に苛まれたせいで手痛い足止めをくらい、家の近くに来るまで一時間もかかってしまった。
途中立ち寄ったゴミ置き場で傘を拾えたのは僥倖だ。ところどころ穴が空いている蝙蝠傘を手に、狭い路地裏を抜けていく。
ピカッと一瞬辺りが照らされたかと思えば、ほんのすぐ近くに雷が落ちた。
僅かに照らされた瞬間、路地裏の壁際に、一人の少年がもたれがかっているのが見えた。
少年が血を流していると気付いた千晶は、穴の空いた傘を放り出して咄嗟に駆け寄っていた。
肩を寄せて顔を覗き込むと、苦悶で歪んだ顔に雨と混ざって脂汗が滲んでいる。
早く治療をしなければ。肩を貸して立ち上がれるか問おうとすれば、思い切り手を振り払われた。体はよほど辛いだろうに、強い力ではたかれた手のひらが痛い。
「さわ、るな……!」
少年は目尻を吊り上げて獣のように威嚇する。雨で濡れた金糸の隙間から覗く目には、確かな殺意が滲み出ていた。
少年の手のひらが、ぼうっと青白く発光している。魔法を使う気だ。
ろくに魔法を使えない自分が、敵うはずもないような大きな気配を感じる。
千晶は死を覚悟して、少年に再び手を伸ばした。
少年は今にも魔法を放ちそうであったが、魔力か体力の限界か、青白い光は消え失せ、再び崩れ落ちた。
そっと近付いた千晶は、少年の顔に手のひらをかかげると、ここに来て唯一覚えた魔法を使った。
すうっと瞼が落ちていく。強制的に相手を眠りに誘う魔法は、よほど相手が弱っているか信用していないとまず効かない。
すぅすぅと寝息を立てる少年を背負う。小さな体だったが、その日暮らしの千晶には重い。
それでも、身に付けた白い服が赤く染まっているのを見ると、動かずにはいられなかったのだ。
とてもじゃないが傘なんて持てる余裕もなくて、ゴミ置き場で拾った穴だらけの蝙蝠傘はその場に捨て置いた。
遠くで青白い稲妻が光った。先ほどの少年の手のひらも、同じ色をしていたと見上げる。
やがてドォォォンと鳴り響いた雷と激しさを増す雨の中、千晶は帰路を急いだ。
家に着くと、少年の傷に障らないようにそっとベッドに寝転した。
血の滲んだ服を恐る恐る捲ると、案の定と言うべきか、少年は腹を怪我していた。
鋭利な刃物で切り裂かれたような斜めの大きな傷跡は、あまりに痛々しい。
千晶は家中の道具を集めて治療し、薬と私物を交換してもらうと、無理を言って仕事を休みつきっきりで看病した。
一時は高熱で命の危機さえ危ぶまれたが、治療の甲斐あってか、三日目には様体も落ち着いていた。
千晶は胸を撫で下ろし、穏やかに眠る少年の顔を眺める。
美しい少年だった。指通りのいい柔らかな髪、少年特有のまろい頬に、陽を知らぬ白い肌。
人形のような美少年は、初めて見たときとは別人のようにあどけない寝顔を晒している。
少年を見ていると、半年前に亡くなった弟を嫌でも思い出した。いや、だからこそ、必死で助けようとしたのかもしれない。
その内疲れが祟ったのか緊張がほどけたのか、千晶はうとうとと眠気に誘われた。
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