三年前

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1766年12月7日 「おい」  ああ、優人(ゆうと)が呼んでいる。起きなければ。  眠気を押し退け目を開くと、首元に冷たく鋭い何かが触れた。覚えのある冷たさだった。  紙で切ったようなヒヤリとする痛みと共に、首筋には一本の細く赤い線が刻まれる。 「お前、何者だ。答えろ、一体何が目的でこんな真似をした」  千晶はそこでようやく、自分に剣を向けているのが助けた少年だと気付いた。  そうすると不思議なことに、それまで感じていた恐怖が和らいだ。状況など何も変わっていないのに、落ち着いた声で告げる。 「あなたが怪我をしていたから」  自分は少年を助けた。理由を話したらわかってくれるだろう。だから千晶は落ち着いていた、わけではない。  誤解が解けないまま理不尽に殺される可能性だって、十分頭にあったことだ。この世界では驚くほど簡単に、人の命は奪われていく。  千晶が恐れなかった理由は、この少年になら殺されてもいいと思えたからだ。  弟を亡くした今、生きていく理由などない。  自分は幼い弟を死地に向かわせた罪人で、犯した罪に相応しい最期を求めていた。  弟と年の近い少年に殺されるなど、理想ではないか。そんな風に思えたのだ。  だから千晶はそれ以上は何も説明せず、全てを少年の意思に任せることにした。  このまま首を切るか、剣を下ろすか。どちらだろうとぼんやり考えていると、首元から冷たい感触が離れる。後者のようだった。  剣を下ろした少年は、薄気味悪いものでも見るような目を向けている。 「それだけか」 「うん。あのままだと死んじゃうと思って」  振り返って少年を見上げる。  顔色が悪い程度では到底崩れない相貌の美少年は、苛立たしげに舌打ちを落とすと、その場にどかりと胡坐をかいた。  一連の仕草があまりに似合わなくて、少し笑ってしまいそうになる。 「何が望みだ」  子どものくせに大人びた話し方をする子だな。  そんなことを考えていたせいで、反応がワンテンポ遅れてしまった。けれど言葉の意味を理解したところで、やはり首を傾げるしかない。 「何って……何も」 「白々しい嘘をつくな。僕が何者か知ってて助けたんだろう」  有名人なのだろうか。こんなにも綺麗な子だから役者さんかもしれない。それにしては人に剣を向けることに慣れていたけれど。  千晶は少し考えたが、ちっとも検討がつかず、結局素直にわからないことを伝えた。  何も知らないしわからない。そう話す千晶に少年は眉を寄せ、「そうか」と静かに呟いた。 「こちらが態度で示せ、ということだな?」  気が付けば、固い地面の上に転がっていた。上には少年が乗っている。  何をするつもりだろうか。千晶は本当に見当がつかず、目を白黒させることしかできなかった。転がった拍子に打った頭がじんじんと痛むことも、思考を妨げたのかもしれない。  少年は手のひらで千晶の腹を撫でると、はっと鼻で笑った。 「貧相な体だな」  それはそうかもしれないけれど、別に言わなくたっていいと思う。  千晶はもう他人にとやかく言われることを気にするほど感情が豊かではないが、その言い方には嫌な思い出があるのだ。  それをこんな、弟と同じくらい小さな少年に言われることは堪らない。  少年の顔が近付いてくる。  色を失った薄い唇から発せられた声は、果たして侮蔑の類いだったのであろうか。「ワン!」という鳴き声に遮られ、わからず仕舞いだ。 「あ、ヒラメ」  千晶は少年の傷に障らないように押しのけると、ドア代わりに立てかけた板切れの隙間から入ってきた一匹の犬を出迎えた。しゃがみ込み、よしよしと頭を撫でる。  最近は余裕もなく構ってやれなかったので、少し拗ねているようだ。自分からきたくせにツンと顔を背けるヒラメに謝罪しながら、後ろを振り返る。 「この子、ヒラメっていうの」  少年はポカンとした顔で千晶とヒラメを交互に見ると、やがて気が抜けたような息を吐いた。 「貧相な犬だな」  先ほど千晶に向けた言葉が再び吐き出された。それはどうしてか、少しだけ千晶の心を軽くした。  嫌な思い出が、ヒラメとお揃いというだけで払拭された気がしたからかもしれない。  大袈裟でも何でもなく、過去の呪縛から解き放たれた気がしたのだ。  千晶があんまり嬉しくてお礼を言うと、少年は「はぁ?」と溜め息だか不満だかを口にして、その場にしゃがみ込んだ。 「何なんだお前……」  そう言えば名乗っていなかったと思って「千晶」と名乗ると、再び「本当に何なんだ」と言われた。  腑に落ちない千晶の傍では、ヒラメが手のひらに頭を押し付けていた。
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