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プロローグ
1769年6月15日
その日は生憎の雨だった。
外は暗く、太陽は一向に顔を出さない。
千晶は雨が嫌いではなかったが、好きにもなれなかった。あの少年と出会った日も、別れた日も、同じように雨が降っていたからだ。
肌に張り付く服の感触や、前髪から滴るしずく、濡れた靴底。今の自分の状況が、かつての記憶を揺り動かす。
「約束しただろ、千晶」
前には一人の青年が立っている。
青年は壁に手を付き、千晶との距離をぐっと詰めていた。逃げ場はなく、また、仮に逃げる隙があったとしても、逃してもらえないことは明白だ。
濡れた金糸から垂れたしずくも、長い睫毛に縁取られた碧い瞳も、全てに見覚えがある。
ただ唯一覚えがないのは、その胸焼けしそうなほどの甘ったるい声だった。
記憶より低いその声は、まるで自分を求めているように聞こえる。知らず身震いした千晶を見て、青年は薄く微笑んだ。
その笑顔の凄まじさと言えば。
この世にいる全ての生き物は、彼に恋をするために生まれてきたのではないか。
そう思えるほどの美しい笑みに、千晶は息を呑み、堪らず顔を伏せた。
「恥ずかしいのか?」
相も変わらず甘やかな声に、覚えのある棘が見え隠れしていた。
出会った当初、千晶を詰っていたときの声音に似ている。違うのは、その声に滲むものが軽蔑や憐れみではないことだ。
では何を含んでいるのかと言うと、千晶には説明のしようがなかった。ただその声を聞いていると、全てを投げ捨て堕落することを赦された心地になる。
正気を保つため噛み締めた唇は、しかしすぐにほどけることとなった。
指先で顎をすくわれ、そっと顔を上向けられたからだ。
碧い碧い瞳の奥に、あるはずもない炎が揺れて見える。夜に煌めく篝火のように、人を惹きつけてやまない炎。
「……可愛い」
かつて美の女神アフロディーテに翻弄された神々は、このような気持ちだったのだろうか。
千晶は言葉を発することもできず、ただ頬を染めて固まることしかできなかった。
窓の外ではゴロゴロと、不機嫌な空が唸り続けている。稲妻を予感させるその音が、窓を叩く雨音すら、今の千晶には聞こえない。
自分に呼びかける青年の声しか、聞こえはしなかった。
頬にかかった指をはらわれる。そっと近付いてくる顔を前に、千晶の頭の中では、三年前の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
彼と出会った、雨の降る夜のことを。
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