1.再会

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1.再会

 おれはここにくるべきじゃなかった。  店に到着して5分で気づいた。ここにおれの居場所はない。  それでもわざわざきてしまった理由。先週、体調を崩して急遽バイトを休まなければならなかったときに代わってくれた先輩の杉下からどうしてもと頼まれたからだ。そうでなければ、バイト先の飲み会に参加することなどない。おれは眼鏡をはずし、親指と中指の腹で眉間を指圧した。照明が烈しく明滅して、眼球の裏が重く感じる。 「百瀬くんって酒飲めないんだっけ」  押し黙っているおれに気を遣ってか、杉下が声をかけてきた。 「あ、はい……あの、そうです」  周囲の騒音が烈しく、声がかき消された。声を張り上げて返事をした。最初は数人だった飲み会はいつの間にか人数が増えて十数人の大所帯になっていた。だれかが友人や恋人を呼んだらしく、半数は顔も知らない。なかには会ったことがあるひともいるのかもしれないが、おれは他人の顔をおぼえるのが極端に苦手だった。前のバイト先を辞めた理由のひとつでもある。性格も暗いし、接客業にはとにかく向いていない。 「そっか。なんか悪いことしたな。ノンアルでこのテンションについてくの、ちょっとしんどいだろ」 「いえ、べつに……」 「ノンアルのひとは支払い安くするように幹事にいっとく。無理しなくていいから」  おれの肩を軽く叩くと、杉下は喧噪のなかに埋もれていった。ダイニングバーは貸し切りになっていて、店内には流行のポップミュージックが大音量で流れている。苦手な雰囲気だ。  酔いやすい体質だから積極的に飲まないというだけで、アルコールを受け付けないわけではない。しかし、細かく説明するのは億劫だったし、だれも関心ないだろう。  無理しなくていいというのは、すなわち「帰れ」という意味だろうか。判別できなかった。おれはバイト用のリュックを背負い、席を立った。杉下の姿はなく、他に気にする者はなかった。  幹事を探し出し、会費を手渡した。幹事は「もう帰るの」と目を丸くしたが、返事を求めることもなく、それ以上なにもいわなかった。開始から1時間でウーロン茶1杯飲んだだけだったが、杉下のいったように割安にはならなかった。きっちり4千円を支払って店を出た。金が惜しいという気にはならなかった。とにかく一刻も早く喧噪から逃れたかった。地下の店を出て階段を上がり地上の空気を吸ったとき、心底ほっとした。  地下にいて気づかなかったが、外は小雨が降っていた。リュックから折りたたみ傘を取り出し広げた。  杉下に一言声をかけるべきだっただろうか。これだけの人数が集まっているところを見ると、単に人数合わせに呼ばれたわけではないだろう。純粋に、仲間同士の交流の輪に入れてくれただけのはずだ。無理をするなという発言も、べつに消えてほしいという意味はなく、心配してくれたのだとわかっている。  罪悪感と猜疑心。いつもこうだ。  形容しがたいじくじくとした痛みを胸に感じながら、おれは歩きはじめた。杉下ではない。いつもは断る飲み会に参加した理由は杉下でないとわかっている。本当は…… 「モモ?」  聞き間違いかと思った。ポケットから摘まみ出したイヤホンを耳に入れる手を止め、おれは振り向いた。  心臓が跳ねた。聞き違いのはずがない。おれを「モモ」と呼ぶ人間はひとりしかいない。パーカーを着てキャップを被ったカジュアルな姿の純真が立っていた。 「やっぱモモだよな。一瞬、ちがうひとかと思った」  雨のなか傘もささずに純真は軽やかな足取りで近づいてくる。さっきまで霧のように細かかった雨粒が大きくなっていた。 「雨……」  かろうじて、それだけ口にした。 「え? あ、雨。ごめん、ちょっと入れて」  こちらの了解も得ず、純真は素早く傘の下に潜り込んできた。パーカーの胸がすぐ目の前に迫って、おれは彫刻のように固まった。 「久しぶりだよな。元気してる?」  純真の声が頭上から降ってくる。おれは顔を上げることができずにただ正面、純真のパーカーの中心にプリントされたヒップホップ風のフォントのブランドロゴを凝視していた。 「大学、春休みだっけ。2年になったんだよな。おれはもう卒業したけど」  約1年ぶりに耳にする純真の声。すこし低くて、だけど明るい。無意識に他人を安心させる声だ。 「モモもこういうとこくるんだ。うるさいの嫌いかと思ってた」 「バイトの……」 「あ、飲み会かなんか? 今なんのバイトしてんの?」  答えようとしたが、喉の奥で声が引っかかって外に出ない。口を開けたまま固まっていると、純真の体の向こう側からだれかの声がした。 「ジュン、なにしてんの。行くよ」  若い男の声に純真は振り向いた。すこし離れた場所に派手なピンク色の髪をした男が立ってこちらを見ていた。 「オッケー。ちょっと待って」  すぐにまたおれのほうを向き、わずかに膝を折っておれの目線に合わせ、顔を覗き込んでくる。「ごめん。連れいるから、また」  人なつっこい笑顔を見せ、入ってきたときとおなじような素早さで傘の外に出た。  変わっていない。こちらが身構える隙を与えず、風のように他人の領域に入り込んできて、そうかと思うとはじめから存在していなかったかのように消えてしまう。ほんのすこしの余韻と体臭だけを残して。  無意識のうちに傘の柄を握る手に力が込もっていた。去っていく純真の背中をただ黙って見つめていた。足の裏が地面に接着されたかのように一歩も動けない。 「あ……」  かろうじて出た声は声になっていなかった。自分がなにをいいたいのかわからなかった。立ちすくんでいると、純真がパッと振り返った。 「あ、そだ。モモ!」  慌ただしく再び寄ってくる。純真が近づいてくると雨の匂いが濃くなる気がして、心臓の鼓動が早まった。 「おれたちさ、また友達なれない? 前みたいに」  屈託のない表情と明るい声。おれはなにも答えられずにただ黙っていることしかできなかった。 「だめ?」  純真が首をすぼめて見つめてくる。考えるより先に、首を横に振っていた。頷いたのか、それとも拒絶か、自分でもはっきりわからなかったが、純真は肯定のほうに受け取ったようで、表情をさらに明るくした。 「よかった。じゃ、LINE教えて。アカウント変わったよね? これ、おれのQR」  素早くスマホを取り出し、QRコードを表示させる。差し出された無機質なモノクロをおれは自分のスマホで読み取った。そうしている間にも、背後で純真を呼ぶ声が続いていた。このあとにも約束があるのか、しきりに急かされているようだ。 「行かないと。じゃ、あとで連絡して」  おれの返事を待たずに純真は駆けていった。連れの男と肩を並べて歩いていく。今度は振り返らなかった。  右手に傘の柄、左手にスマホを握りしめたまま、おれはしばらくの間動けなかった。すこししてから、すれ違う通行人の怪訝そうな表情に気づいた。  雨はあがっていた。  子どもの頃から、空気を読んだり他人の気持ちを推し量ったりということが苦手だった。  中学の頃、生徒会長を決める選挙があり、クラスで票を取り纏めることになった。全員で示し合わせたうえで立候補予定の学級委員長に投票するというものだった。当然、強制力はない。だから賛同せずともなんら問題はないと思っていた。  学級委員長は健闘したが、結果的に落選した。他のクラスに運動部のエースがいて、訴求力と知名度の差による敗北といえた。「せっかく全員で投票したのにな」クラスの空気が沈んでいるところで、だれかが呟いた。今思えばまったく不要で不用意だったが、おれは「全員ではないでしょ」といった。「おれは入れなかったし」。  国政選挙でもないただの生徒会長選挙だ。たとえ一国の未来に関わるような重要な選挙だったとしても、大切な一票を他人に合わせて投じる必要はない。票を入れた相手に思い入れがあったわけでもなければ学級委員長に恨みがあったわけでもなかったが、その小さな違和感から足並みを乱した。それほど重要な問題になるとは思っていなかった。しかし、翌日からおれは無視されるようになった。  高校、大学に入ってからも、よけいな一言を発してしまう癖はなおらなかった。みんなが誉める映画やドラマの話題にうまく合わせられない。好きなアイドルの話にも、周囲と同じような反応を示すことができない。場が盛り上がっている最中にまったく無関係な話題を持ち出して空気を壊してしまう。子どもの頃は自分が原因でしらけてしまったことに気づかなかったが、おとなになるとさすがに周囲の反応を察知するようになる。まずいと感じたら口を噤むが、一度崩れた雰囲気が元に戻ることは稀だった。自然と他人との距離を広く取るようになっていった。  迎合すなわち悪と感じるわけでもない。むしろどんな話題にも対応できる周囲のひとたちをうらやましく思うし、尊敬さえする。自分自身を特別だというつもりもない。他のひとたちとおなじようにできたらと常に考える。それでも、気づいたら頭に浮かんだ言葉をなんの装飾も施さずそのまま口の外に出してしまう。なにが起きるか、想像するのは簡単だというのに。  そんな状態だから、友達ができたことはなかった。幼少時代は近所に住む同じくらいの年頃の子どもたちと遊んだ記憶もあるが、小学生のときに親の仕事の都合で転校して以降は記憶も朧だった。中学、高校はだれとも言葉を交わさず空気のように存在していたし、東京の大学に進学してからもほとんど変わらなかった。学校ではひとりで授業を受け、ひとりで昼食を取り、ゼミでも教授と必要最小限の会話を交わす程度だ。生活費のためにアルバイトもしているが、データ入力とウエブサイト管理のアルバイトだから仕事中に話すことも滅多にない。  今のアルバイトは自分に合っていると思った。コミュニケーションは苦手だが、パソコンに向かって黙々と作業するのは性に合っている。おなじプロセスの繰り返しであってもとくに苦痛に感じることはなかった。なによりもコンピュータ越しでのみ他者と関わることでストレスから解放された。  以前のバイト先は違った。繁華街の居酒屋でホールスタッフを担当していたときはストレスで毎日胃痛と闘っていた。上司や同僚は皆やさしく接してくれていたし、繁華街ではあっても落ち着いた店だったため客層もよく、酔客に絡まれることも滅多になかったが、それでも毎日だれかと顔を合わせて直接言葉をやりとりする環境に気が休まることはなかった。  高校を卒業して大学入学とともに人生ではじめてアルバイトを経験するというときに、これまでの自分を変えて社会に出る準備をしたいという思いがあった。しかし、もともと持っている性格や性質を突然変えるというのは簡単ではないと思い知らされた。  それでも1年ほどバイトを続けられたその理由が純真だった。  純真ははじめてできた友達だった。友達という言葉がふさわしいのかどうかはわからない。一般的な友達とは違うかもしれない。それでも、おれにとっては他に代わりのきかない唯一無二の存在だった。  帰宅する途中の電車内でスマホが震えた。純真からスタンプが届いていた。以前よくつかっていたものとおなじ猫のキャラクターのスタンプだった。 「まだつかってたのか、これ」  思わず声に出してしまい、慌てて周囲に目を配った。おれの独白に気づいているようなそぶりを見せる乗客はいなかった。皆スマホの画面か文庫本、新聞の紙面に目を落としていて、車両内の人間に関心を寄せる人間はない。  送られてきたのはおどけた表情の黒猫がジャンプしている絵柄のスタンプひとつだけで、テキストはなかった。質問を投げかけるわけでもなければ次の約束を促すわけでもないところにさりげない気遣いを感じた。  ため息。連絡先の交換など断ればよかったのだ。アカウントを教えておいて無視するより、その場ではっきり断るほうがはるかにいい。  空気を読めないことが、おれを断りきれない性格にした。失言をしたときの、あの張り詰めた空気におびえて、自己主張することに恐怖をおぼえるようになった。  あのときもそうだった。一昨年の夏、バイトが終わった後、純真とふたりになって……  あのとき、もっとはっきりした態度を取っていれば、今こうして悩むことはなかったのかもしれない。
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