クスノキの下の君は誰?

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 木立の密度が徐々に薄くなり、鬱蒼とした山道を抜けた。抜けるとそこは水田が左右に広がる畦道だった。青々とした稲が風に小さく揺れ、緑の絨毯のようだなと思う。ぽっかりと現れた田園地帯の真ん中には立派なお寺がある。 石上神宮までの中間地点である長覚寺という古寺である。小学校時代に校外学習で訪れたことをおぼろげに記憶している。夏の日差しを跳ね返して屋根瓦がぎらぎらと光っている。  日陰のない白い畦道を長覚寺の門を目指して歩く。  途中、クスノキであろうか。田んぼと田んぼの間、畦道に覆い被さるようにして御神木といっても遜色のないほどの大木が威厳たっぷりに濃い影を作っていた。  異様なまでの大きさに圧倒されながら私はその影の中に足を踏み入れる。  何重にも覆いかぶさる枝葉によって日の光は遮られ、木の下はカーテンをひいた部屋のように暗かった。木陰の中は別世界かと思うほどに涼しく、汗で濡れた体がそよ風に撫でられて、ぞくぞくとする。  影の淵が目の前に迫り、陽光のさす世界に再び足を踏み出そうとした時だった。 ―――おそかったね。  背後から、いきなり声がした。反射的に声の方向に振り返る。そして―――驚いた。  いつから、そこに立っていたのか。  大木の幹の前に寄りかかるようにして、若い女性が一人きり、ぽつんと立っていた。  つばの広い麦わら帽子の下で肩の高さに切りそろえられた黒髪がつやつやと輝いている。白いノースリーブのワンピースからすらりと伸びる手足は、服の生地よりも白く、あまりの白さに私は思わず息を呑んだ。  クルミのように丸い瞳が瞬き一つせず、私の顔を見ている。 「……誰ですか?」  ようやく声が出た。さっきあのあたりを通り過ぎたときには確かに誰もいなかったと思う。人が横に三人並べば、いっぱいになるくらいの細い道だ。見逃すとは思えない。それとも幹の後ろに隠れていたとでもいうのか。 「もしかして、君も森下に頼まれて?」  彼女は微笑を浮かべながら、小さく頷く。それが合図だったかのように私の方へ歩いてくる。私は近づいてくる彼女の顔を確認する。上目遣いに見上げる彼女の目は濡れたようにつやつやと輝いていた。知らない顔だった。 「いつからいたの?全然、気づかなかった」 「ずっと待ってたんだよ」 小枝のように細い人差し指で、私が手に持つスマホを指さす。 「私は用事があるから途中で合流するって森下に伝えたのに、連絡来てなかった?」 鈴の音のようにコロコロとした可愛らしい声だった。 彼女の話しぶりからすれば彼女も私と同様、森下に下見を頼まれた元同級生ということになる。 しかし、一向に私の脳内画像検索には該当する人物が見当たらなかった。はて、こんなにも可愛らしい女性が過去の思い出の中にいただろうか。 まことに女の子の成長というものは予測不可能である。 「さ、はやく行こう。・・・・・・なつかしいね」  そう言うと彼女は影と日向の境界線を軽々と超えて歩き出した。手に荷物は一つもなく、羽が生えてるのかと思われるくらいの軽やかな足取りで前を進んでいく。  田園の真ん中を貫くようにのびる畦道の上を彼女は進む。強烈な陽光のもとにさらされた彼女の肌は透き通った白色で、まるで緑色の海を割って進む天使のようだった。  私は突如現れた美女にたいして、歓喜しながらも、内心激しく困惑していた。  まず名前が分からない。  かといって、「お名前は?」などとストレートに訊ねれば、「私のこと覚えていないの?」と機嫌を損ねるかもしれない。  美女の機嫌を損ねることを私はよしとしない。  メッセージアプリで森下に聞いてみるかと、こっそりとスマホ画面を覗いたが相変わらずの圏外であった。 「なつかしいね」  彼女は楽しそうに話している。長覚寺の門は意外に遠い。 「このコースって四年生の秋の校外学習だよね」 「ああ…そうだったね」  私は彼女の後ろを歩いていることをいいことに、黒髪の隙間から時折見える美しいうなじを無遠慮に眺めていた。 「たしか五年生の時は民族博物館で、六年生の時は京都だったね」 「ふーん。そうなんだ」 彼女の返事に違和感を感じ、「ん?」と呟くと、彼女は前を向いたまま続けた。 「私、四年生の終わりから学校に行けなかったから」  彼女の言葉を聞いて、――考えて、あっと思い当たった。  四年生の三学期の途中で不登校になった子がいた。何が原因だったかは覚えていないが学校に来ることができなくなり、たまに保健室にだけ登校したり、放課後の学校に来ているのだと噂になっていた。結局、卒業式まで女の子は姿を現さず、卒業アルバムには集合写真の右上に四年生のころの顔写真が不自然な笑顔で貼られていた。  たしか、名前は――、 「―――藤井さん?」  おそるおそる尋ねる。  だとしたら、純粋にうれしかった。おぼろげな記憶ながら、小学校時代、藤井さんが不登校になるまでは、少なからず交流があり、男女の壁を超えて仲が良かったと記憶している。  彼女は首を傾けて振り返る。どうだっていいよというように目を細めて笑い、ねえ、とまた続ける。 「子どもの頃さ、この辺で妖怪やまんばの噂があったよね」 「……そんな怖い話あったけ?」 「あったよ。たしかさ、道を歩いていると、急に知らないお婆さんが『お前は悪霊に憑りつかれている』とか『顔に不吉な面相が出ている』とか話しかけてきて、『お祓いをしてやる』って言って、強引に長覚寺に連れていかれるんだよ」 彼女は、歩を緩めて横に並ぶようにして話を続ける。 「でも、その老婆に連れていかれた人は、誰一人長覚寺からは出てこなかった。実はその老婆は妖怪で、連れ込んだ人を鍋にして食べていたのだ!」 彼女は、両の手を胸の前で力なく揺らし「うらめしや~」と言って、話を締めくくった。どうだ、と言わんばかりに私の顔を見上げる。控えめに言って、可愛すぎる。私は思わず目を逸らした。 「怖いね」 鼻の下が伸びないように注意しながら相槌を打つ。 「怖がってないでしょ」 彼女は頬をふくらませる。 「いやいや、ちゃんと怖かったよ」  なんとも微笑ましいではないか。彼女が藤井さんだとして、元不登校児だったとしても、今はこんなにも可憐で、美しく成長しているのならば、きっと彼女の人生は良い方向に展開しており、幸せなのだろう。 ぜひとも彼女の幸せにご相伴あずかりたい。すなわち彼女と仲良くなりたい。私の奥に秘めたる下心が、ぐつぐつとせり上がってくるのを感じた。
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