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両親――というか、母――が卓球を許可してくれたのは、俺が八歳になった頃だった。
「わかった。私も腹をくくる。タッキュウをやりなさい」
夕食の席で、母は、決意のこもった目で言った。食卓に並ぶ味噌汁の具は、やはりワカメだった。
俺が通うことになったタッキュウ教室は、県警本部近くにあった。五階建てのビルの全フロアが、タッキュウ選手育成のために使われていた。教室、なんて表現が似合うものじゃない。タッキュウ選手養成所といった雰囲気だ。
この三年間で、俺も、それなりに世間のことを学んだ。
まず、この時代の卓球は、カタカナで「タッキュウ」と表記される。さらにここからが重要だ。タッキュウは、国家間で争いが起こったときに、どちらの国の主張を通すか決定する競技だという。いわば、戦争の代わりにタッキュウで勝敗を決するのだ。
なぜタッキュウで決するのかは分からない。でも、平和的でいいことだと思う。少なくとも、戦争で無駄な死人が出ることはない。物資が不足することもない。当然、経済恐慌に陥ることもないだろう。
戦争の代わりといっても、タッキュウのルール自体は卓球と大差ない。十一点先取で、そのゲームは勝利。ただし、両者が十対十で並んだ場合は、そこから二点先取した方が勝利。先に三ゲーム先取した方がその試合の勝者となる。
養成所に入ってすぐ、俺は神童と呼ばれるようになった。前世での感覚が残っているのだ。しかも、この時代のタッキュウ選手は、前世の時代と比べて平均レベルが低い。
俺は十歳にして、上級者が集まる練習に参加するようになった。周りは大人ばかりだった。
上級者コースのコーチは、はっきり言って恐かった。国家間での戦いの際、日本チームの監督も務める人だという。タッキュウ選手らしからぬ一八〇ほどの長身に、スキンヘッド。左目には、海賊の船長のような黒いアイパッチ。頬に十字傷まである。なんの漫画の強面キャラだよ――と、思わず叫びそうになった。
コーチは、見た目通り厳しかった。まるで軍隊のような訓練を選手に強いた。練習終わりには、必ず言っていた。
「日々の鍛錬、および裏技の習得を怠るな。以上」
コーチの言う「裏技」の意味が、俺には分からなかった。
たぶん、得意な必勝パターンが通じなかった場合の、サブウエポン的な技術を身につけろということだろう。
俺は勝手にそう解釈した。
まるで軍隊のような研鑽と訓練の日々。そんな毎日は、確実に俺を強くしていった。十三歳になる頃には、中学の大会を飛び越えて、全日本選手権で優勝するほどになっていた。名実ともに、文句なしの日本一だ。
日本一になったときは、嬉しかった。人生で一番どころか、前世も含めて一番嬉しかった。
ただ、両親は、どこか複雑な顔をしていた。特に母は、夕食の席で「おめでとう」と言いながら、涙を流していた。それは明らかに、嬉し泣きではなかった。
母の涙が、味噌汁の中に落ちた。味噌汁が波打っていた。
味噌汁の具は、やはりワカメだった。
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