序章

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序章

 大いなる天は、人の気分に左右されることはない。  しかし人の気分は、天の模様に影響を受ける。晴天であれば清々しい気持ちになり、雨天になればどことなく気分が落ち込む。暑ければ苛立ち、凍えれば悲しみが胸に寄せる。荒れる風、高まる波、落ちる雷を人は恐れる。天気に合わせて浮き沈みする己の気分を見つめるたび、己はあくまで天に命の手綱を握られた動物なのだと思い知らされる。  己の置かれた状況と極端に乖離した天の模様を目の当たりにしたとき、天と己との間に生じる齟齬に、人は、言いようのない不気味さと不条理を感じるのだ。  その朝は、深呼吸するだけで心地よさを感じるほどの恵まれた晴天だった。暑くもなく寒くもない適温。島にしては湿度も高すぎることはない。潮の匂いをはらんで吹き抜けていく風は、肌に優しい。  だが俺の目の前にある「もの」は、清々しさとはかけ離れていた。濡れそぼった少年の死体が、ガジュマルの大木に掛けられている。  「少年」ではなく「少年の死体」と断言できる理由は、地面から一メートルばかり離れた位置に掲げられた彼の体が、凄惨な姿を晒しているからに他ならない。  幼気な少年の顔面を、木の枝が貫通している。眼球があったはずの両の眼窩から木の枝が突き抜けて、空へ向かって伸びていた。限界を超え顎が外れて開かれた口の奥にも、枝のようなものが見えている。横へ伸ばされた両腕には、ガジュマルの枝とも根ともつかぬものが絡み付いている。まるで死体が木に取り込まれているようだ。一見すれば、悪趣味な芸術作品のようにも見える。  幼さの残る華奢な体を覆う一枚の白い着物は、大部分がはだけていた。着物の裾から見える力なく垂れた足からは、彼の全身より流れ出した夥しい血液がポタポタと滴る。白い肌に跡を残す大量の血は、死の新鮮さを表すように変色しておらず、乾いてもいない。よくよく見れば、彼の体はぐっしょりと全身が水に濡れており、滴る血に水も混ざっている。  そこまでを冷静に観察してようやく俺は口を開く。膝がガタガタと震えだし、体が忘れていた絶叫が遅れてやってきた。
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