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「はい、田中です」
片耳に押し立てたスマホの背に、見覚えのある古ぼけたシールが幾つも貼られていた。
私は頭が真っ白になって、カップを握りしめたまま、カーテン越しに揺れる先生の影を目で追った。
「ごめんね。ガムシロ、これね」
再び近づいて来た先生が差し出してくれた手を、私はじっと見詰めた。
「先生……先生の下の名前って、なんですか」
先生は、"あの時"みたいに悪戯っぽく笑いながら言った。
「絵梨、田中絵梨」
手から離れたカップが、ベットの上に倒れた。
私は先生の腰に抱き付くと、声を上げて泣いた。
「芽衣、ちゃんと帰ってきてくれたね」
先生の手がそっと私の頭を撫でた。
「あの時、私に言ったでしょ『大人になっても人生は辛い?』って」
「……うん、うん」
掠れた声で私は切れ切れに答えた。
「大人になってからあの頃より辛いこともあったよ。でもね、あの頃よりもっと楽しいことも数え切れないくらいあった。思いがけない出会いとか、信じられないくらい面白いこととか」
「…………」
「それにあの時、芽衣と一緒に過ごした時間がずっと私の背中を照らし続けていてくれたって、それを伝えたくてこれまで生きてこれた」
私はただただ胸がいっぱいになって、ぎゅっと彼女を抱きしめていた。
「本当にありがとう、芽衣」
やさしく肩を叩かれて、私は顔を上げる。
穏やかな眼差しの彼女と目が合った。
「なんか勿体なくて、お皿と交換できなかった」
絵梨がそう言いながらスマホをこちらに向ける。
私も同じように自分のスマホに貼ったシールを見せる。
少しも色褪せておらず、真新しいそれを見て絵梨が笑う。
「聞かせてよ、これまでのこと」
「もちろん。ずっと話したかったんだよ」
「あ、アイスティーごめんなさい」
「ううん、全然大丈夫」
そう言って、絵梨はカーテンの隙間を潜り抜けてデスクの方へと向かう。
ベッドの上から降りると私は、閉ざされていたカーテンを開いた。
途端に視界が広く開ける。
布巾を手にした絵梨が、心なしか嬉しそうに呟く。
「どこから話そうかな」
開け放たれた窓から、校庭でサッカーの練習をする生徒達の声がする。
あの時のような風が吹く。
二人きりじゃない、この世界で。
END.
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