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第14話(最終話)
首を横に振った医師の前から脱兎の如く博士の部屋に駆け戻ったシドは、博士に付き添っていたハイファを見た。
シドは相変わらずのポーカーフェイスで顔色も変えてはいなかったが、ハイファはその切れ長の黒い瞳の色だけで事態を読み取った。
それは哀しいことに博士本人も同じだった。
「三ヶ月の予定が、これは医学博士の看板を下ろさなければならないようだね」
ベッドに横になり酷い顔色をした博士が掠れた声を出す。
「何言ってんだ、非日常をもっと愉しませてくれるんだろ」
「どうやらそうも行かないらしい、ペルセフォネのお呼びが掛かったみたいだよ」
もう本人の希望で点滴すらされない、その細ってしまった左腕をベッドサイドの二人に伸ばす。シドとハイファはその乾いた手にしっかりと手を重ねた。
「博士、あんたは独りじゃねぇぞ。ここにこうして俺たちがいる。友達だろ」
「……ああ、嬉しい限りだ。それに、ここにきてまできみたちは訊かないんだね」
「ンなこと気にすんじゃねぇよ。それより何か欲しいもんはねぇか?」
「そうだね……」
灰色の目が僅かに笑んで囁く。
「死に水のコーヒーでも淹れて貰おうか」
急いでいるのを悟られないよう、だが手早くコーヒーメーカをセットするシドと、その動きを目で追うハイファに博士は何気ない口調で話し始めた。
「この人生で得られた大切な友人のきみたちにこそ最期に遺産を残したいのだが、すまない。ソースコードを渡してやりたいが、もうこの世にはないのだ」
「どういうことですか?」
「コードはあの、わたしが根元から切り倒した樹の葉に含まれる葉緑体DNAのゲノム配列そのものだからだ。この手で処分してしまった、わたしの……人生そのもの」
「人生そのもの……あの樹って?」
事情の分からぬハイファがシドを見た。振り返って博士にシドが訊き返す。
「前に言ってた、ファイバの地面を突き破って生えた木のことだよな?」
「そうだ。研究所、わたしのデスクの窓の真下にあった樹のことだ」
「ハイファ、ダイレクトワープ通信だ」
言われずともハイファはリモータを操作している。
「無駄だよ。切り倒した樹はその場でメンテ係が切り刻んで葉っぱ一枚残さず処分したのだからね。今頃はファイバブロックになって何処かの地面に敷かれていることだろう。そう、わたしの人生そのものと言っていい終わり方だ。似つかわしいよ」
「待てよ、博士。同じ種類の樹ぐらい幾らでもあるだろ?」
「だから無駄だと言っている。あの樹は若木の頃にわたしが放射線照射と薬剤でハイブリッド化したのだ。あれは、わたしだけの樹だ。この世に二本とない」
沸いたコーヒーをカップに注ぎ、シドはトレイに三つ載せて持ってきた。ハイファがベッドに角度をつけ付属のテーブルを出すとトレイを置く。
「言っとくが死に水なんて縁起でもねぇ。ただのティータイムだからな」
そう言い放ってシドはコーヒーを飲みながらハイファの咎める目も無視して煙草を咥え火を点けた。逝こうとしている友を前にして、シドは紫煙を吐くより何度も喉に詰まった熱い塊を呑み込んでいた。鼻の奥がツンと痛んでハイファからも博士本人からも顔を背けるしかない。
やがてコーヒーを半分も減らせなかった博士がカップを置いた。その手がテーブルから力なく滑り落ちる。すうっと息を大きく吸い込むと博士の灰色の目の力が明らかに弱まった。
「博士……?」
動きに反応したシドが迷った子供のような声で呼び掛けた時、ハイファのリモータに発振が入った。操作し小さな画面を見たハイファが急いでリモータアプリの十四インチホロスクリーンを立ち上げる。
その内容を目にしたシドは煙草を灰皿に放り込み、ベッドサイドに回り込むと博士の両腕を掴んで揺さぶった。
「博士、起きろよ博士っ! ほら見ろ、あんたの樹は生きてるぞ!」
「……何、だと……おお、おお――!!」
ダイレクトワープ通信で送られてきた3Dポラ、それに映っているのは地面すれすれしかない切り株の幹から伸び出した僅か三センチ程の小枝だった。
その黄緑色の茎の先端には、みずみずしい緑の若葉が双葉となって鮮やかに陽に照らされているのがくっきりと映し出されていた。
「博士、あんたやっぱりすげぇよ。数億の人間救っただけあるぜ」
「これでSSCⅡテンダネスっていう博士の子供も電源引っこ抜かれなくて済むね」
「あんたも自分の見立て通り、きっちり生きろよな」
「大切なものを得たわたしには、まだデイジーデイジーの歌は必要ないのか……」
熱いものを流すだけの気力が、その灰色の目には戻り始めていた。
了
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