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「わたしは昔、人魚だったのよ」と、砂浜から海を眺めるその車椅子の彼女は、美しく笑った。
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僕が彼女、『来海マリナ』と出会ったのは、もう三年近く前になる。ヘルパーとしての資格を得て、初めて担当したのが彼女だった。
それ故に、個人的に他の利用者さんと比べ思い入れもあったのだが、彼女とは他にもいろいろな共通点があった。
まずは年齢が近いこと、それから近所に住んでいること、それともうひとつ、海にまつわる過去のこと。
マリナは昔、この近くの海でとある事故に遭ったらしい。
彼女は詳細を話したがらないが、それ以降両足に力が入らなくなり、誰かの助けなしには立ち上がることができない身体となったのだ。
かくいう僕も、かつて同じ海で溺れたことがある。就職が決まり浮かれた状態でのボートからの転落なんて、自業自得の不注意だったけれど。当時の恐怖は今でも身に染みている。
当時僕は運良く無事助けられたものの、未だに水辺は少し苦手だ。
僕なんかより余程辛い経験をしたマリナは、当然海を嫌っているものとばかり思っていた。
だから、徒歩圏内の近所に遊泳可能な人気の海岸があるにも関わらず、彼女の通院や買い物なんかの外出時には、海沿いのルートは通らないよう気を付けていた。
「それじゃあ、帰りましょうか」
「……待って。まだ、時間あるわよね?」
けれど今日、そんな恒例となった買い物同行の帰り道でのことだ。
いつものように車椅子を押していると、その道中「どうしても海に寄って欲しい」とマリナに懇願されたのである。
普段は口数も少なく、必要最低限の要求しかしない、控えめな彼女たっての希望に、僕は驚く。
「え……海、ですか?」
「そう、海。砂浜。ほんの数分でいいの。だめ……?」
「えっと……」
本来なら、寄り道なんて言語道断だ。独断でプラン以外のことをして、万が一怪我や何かされたら責任が取れないし、一度でも特別なことをして、それが他のヘルパーの時にも通用すると思われても困る。
けれど、三年近く関わってきた彼女の、こんなわがままを聞くのは初めてだったのだ。戸惑いながらも、個人的な気持ちとしては当然叶えてやりたかった。
立場と私情の狭間で僕が答えに窮していると、マリナは続けた。
「ああ、大丈夫よ。泳ぎたいなんて無理を言うつもりはないの。もう秋だし、他に人も居ないと思うから……少し砂浜に降りて、潮風を浴びて、その香りと波音を近くに感じたいだけ」
マリナが行きたいとねだった海は、彼女が一人暮らししている家のすぐ近くにある。
それなのに、彼女一人では車椅子のタイヤが砂に埋まって、海辺に降りることなんて出来ないのだろう。
些細なことも誰かに手伝って貰わなくてはいけないのに、普段気軽に頼み事を出来るような、親しい友達や家族も近所には居ないらしい。
まあ、無口な彼女は世間話の類いをほとんどしないので、事前資料で知り得た情報しかないのだが。
「海、かぁ……」
そうだ、彼女はわがままを言わないのではなく、ずっと言うことが出来なかったのだ。
そんな彼女が珍しく勇気を出して頼みごとをしてくれたのなら、仕事の規則だとか、水辺が苦手なんて些細なことは、ほんの一瞬捨て置いていい気がした。
「……わかりました」
今日は買い物も少なく、時間はまだ余っている。多少の寄り道なら許されるだろうと、僕はこっそり、彼女の望みを叶えることにした。
「今日だけ特別。本当に、少しだけですよ」
「……! ありがとう、汐見さん」
「他の人には絶対内緒ですからね!」
「ええ、もちろん。約束するわ」
買い物帰りに徒歩数分の海へ行く。ただそれだけのことに、とても嬉しそうに微笑むマリナは、その特別を噛み締めるように何度も何度も頷いた。
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