春の日の夢

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 その日、山川は、小田原駅前の駐車場にワンボックスカーを止め、ウトウトしていた。すると、 『コンコン』  助手席の窓を叩く音がした。目を向けると、菜穂子が笑顔でこっちを見ていた。車を降り、 「おう。悪いな、遠くから」  ぐるっと助手席側に回り込みながら彼女をねぎらうと、 「はい、約束の書類です。USBも入ってるんで、落とさないように気を付けて下さいね」  と言ってウインクをした。そんな彼女に、 「これで、美味いもんでも食って帰って」  山川は五千円札を差し出してから、 「あっ、電車賃込みね」  笑って付け足す。オッケー、と指で返事をする菜穂子に、 「じゃ!」  と手を挙げ、運転席に戻り、エンジンをかける。と、同時に助手席のドアが開いた。  びっくりして見ると、菜穂子がスルリと入って来て座った。 「おい……」  後の言葉が出ない。 「まさか、これで終わりじゃないですよね?」  と言って、さっき渡した五千円札をヒラヒラさせながら笑う。 大卒で入社して二年目の彼女の笑顔は、いつも人懐こくて、天真爛漫だ。 「いや、横浜からの電車賃が往復で二千円。メシ代が三千円……」 「そんなことより、今日一日、私と付き合ってください!」  山川の言葉を遮りつつ、汚れなく言う。 「お前……」  家族の顔が頭をよぎりながら、誘惑に心がなびく。 「あ、ごめんなさい。無理言ってますよね、私」  急に殊勝な口調になり、 「じゃ、これ、ありがたく頂きますね」  と五千円札を見せ、助手席を降りようとする。 「いいよ。今日なら」  咄嗟に山川が言うと、彼女は一瞬止まってから、 「そう言ってくれると思ってました!」  満面の笑みを向け、 「はい、じゃこれはお返ししますね」  はい、というふうに、五千円札を山川の手に返した。  妻と高校生の二人の娘は、「大人の女の旅」などと言って東京観光に出かけている。 「それじゃあ俺は、男の一人旅でもしてくるわ」  夕べそんな会話を交わしていた。だから、 (ちょうどいい。こっちも二人旅といくか。極秘だけど)  罪悪感を持ちつつ、にやりとする。 「何笑ってんですか? キモイですよ!」 「ああ、いやいや、何でもないよ」  我に返って五千円札を雑に財布に入れると、 「よし、じゃあ、春の箱根ドライブといくか!」 「ありがとうございます。よろしくお願いします」  菜穂子は嬉しそうに言いながら、シートベルトを装着した。
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