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Episode 01
―――七月下旬。
新旧の建築物が交錯する繁華街の路地裏。如何わしい飲食店や風俗店が軒を連ねる通りにある雑居ビルに入る事務所から、渋い顔をした長身の二十代後半の男が出てきた。彼に会釈して派手なジャージを着た顔面凶器のような小太りの男が事務所に入っていく。
物騒な男が出入りするそこは広域暴力団・矢嶋会直系針生会の事務所だ。
数年前に執行された暴対法を機に、彼らは事務所に看板を上げなくなり地下に潜るようになった。カタギとしての顔を持ち、身なりもカタギと見分けがつかなくなってきている。
スタイリッシュなスリムスリーピース・スーツを身に纏う、眼光鋭く端正な顔立ちの中葉雅人もそのひとりだ。シノギの専門は債権取立てと倒産整理。
幹部でありながらあまり事務所に顔を出さない中葉は、先日繁華街で起こした揉め事の件で組長の守部に呼び出されていたのだ。毎度お決まりの『組に迷惑はかけるなよ』という台詞を聞いて解放された。事務所から出た中葉はエレベーターとは逆の方向、非常出口の方へと足を進める。
「今日もええ天気やな」
ドアを開けて外に出た拍子に仰いだ空は雲ひとつ浮かんでいない晴天だった。
中葉は十代前半で関西から上京したが、いまだに捨てたはずの地元の訛りが抜けない。
スーツの内ポケットに手を差し入れて煙草を取り出せば、パッケージには一本も残っていなかった。一服するために非常階段を選んだ中葉は舌打ちしてパッケージを握り潰す。それを通りに向かって投げ捨てると、両手をスラックスのポケットに突っ込んだ。そのまま派手な足音を立てながら塗装が剥げ落ちている階段を降りる。
組事務所が入る雑居ビルの反対側の通りにある徒歩五分ほどの煙草屋へと向かう。そこは小柄な老婆が営む対面販売の店だ。組の喫煙者やカタギ連中が彼女のことを『お袋』と慕って通う店には、ガラスの小窓の前に老婆の愛猫である巨漢猫が寝ていた。
「お前邪魔や」そう言いながら、ガラスの小窓を開ければ、いつも奥の部屋でテレビを見ている老婆が落ち着かない様子で鞄に札束を押し込むように入れていた。すぐに何かあったと察した中葉は自分に気づいていない老婆に声を掛ける。
「オバちゃん?」
「中葉さん。車出して下さらないかしら、タクシーを呼んだのだけれど……」
早く、早く行かないと息子が…、と老婆は慌てているにも関わらず、いつもと変わらない上品な言葉使いで訴えてきた。すぐに高齢者を狙った詐欺だと直感する。しかし、老婆の背後の関係を知る中葉はある思いと下心が同時に働き、まずは先に後者を優先させるべく老婆を説き伏せず。
「そりゃ大変や。車取ってくるわ」
乗せて行ったるから待っとき、と慌てた芝居を打ち、組事務所の方へと走った。
素早く雑居ビルの前に止めていた黒塗りの外車に乗り込んで、煙草屋の前に着ける。詐欺師に要求された大金が入った鞄を胸に抱えた老婆が右側の助手席に乗り込むと、すぐに車を走らせた。聞くまでもなく老婆が逸る気持ちと動揺で揺れる心を吐露する。それは愛息をエサにした典型的な高齢者を狙った詐欺の手口だった。
(ガキ使こうてシノギやっとんのはどっちや?)
その詐欺は殆どが単独で行われることはなく、其々に役割分担があり組織化されている。背後にいる人間の大半は、暴力団に属さない半グレか本物のヤクザのどちらかだ。
しばらく車を走らせ、老婆が詐欺師に指示された現金受け渡し場所の繁華街に着いた。他のそれとは風格が違う上品な街。洗練された品のある衣服に身を包んだ老若男女で行き交う大通りにある有名高級デパート。その入口付近が受け渡し場所に指定されていた。
車から降りて待ち合わせ場所に向かう老婆を運転席から見守る。
「楽しみやな」
窓枠に肘を付いている中葉は口端を引き上げて笑みを含む。
老婆は詐欺に要求された五百万が入る鞄を胸に抱き、周囲を忙しなく見回している。
五分後。待ち合わせている相手を探している様子の十代後半の少年が現れた。中葉は助手席正面のグローブボックスからデジタルカメラを取り出す。現場を押さえようとファインダーを覗く。
「あいつか。それにしても、えらいちっちゃいの」
周囲を警戒しながら老婆に歩み寄る少年は線が細く背丈は百七十センチ程。茶色い髪に緩いパーマがかかっていた。ふとある犬種が頭に浮かぶ。
「アレや。なんやったかな……プードルや!」
カメラを構えたままの中葉は少年が老婆に接触して言葉を交わしている姿を写真に撮る。複数枚撮影するとカメラを助手席に置いて運転席から降りた。
二人に気づかれないように足を進める。
そして…――。
「お兄ちゃん、あかんでぇ年寄り騙したら」
そういきなり声を掛けた中葉は、唖然とする少年の隙を突いて腕を掴んだ。瞬間、我に返り腕を振り解こうとする少年に向かい、「じっとせぇ、このまま警察に突き出してもええんやでぇ」と眼光鋭く脅してすぐに老婆の方に振り返る。
「おばちゃん、ごめんやでぇ。こいつ詐欺の受け子や」
逃げることを諦めた少年の腕を掴んだままの中葉は、状況が理解できずに唖然としている彼女に続けて言う。
「俺がきっちり性根入れといたるから帰り」
老婆は赤べこのように頷いて、しっかりと鞄を胸に抱きかかえて背を向ける。そのままゆっくりと歩き出した老婆に、「おばちゃん、タクシー拾って帰りや」と周囲を気にすることなく声を張り上げた。中葉は老婆が助言通りに行動するのを見届けて、少年の方に振り返る。そのとき少年に何かを言われた気がした中葉は、すでに腕を離している少年の顔を覗き込む。
「あ、いまなんか言うたか?」
まるで大型犬に睨まれたチワワのように身体を小刻みに震わせ、俯き加減でシャツの裾を両手で握り締めている少年が消え入りそうな声で言う。
「ご、ご…ごめんなさい。警察に行くのだけは……」
「お前がカネ引っ張ろうとしたオバちゃんな。ウチの顧問弁護士のオカンや」
無事に帰れるかわからへんで、と中葉はにやりと笑った。
老婆の息子は、本家の顧問弁護士であり直系である中葉の組の組長の友人でもあった。その相関関係を知っていた中葉は下心で老婆を助けたのだ。今頃正気に戻った老婆が事務所を訪ねて組長に話しているはずだ。そこへ未遂犯の少年を連れて帰れば、しばらく好き勝手に行動しても組長から咎められないだろうという画を頭の中で描いていた。
次の瞬間、極道だと察したらしい少年が必死に訴える。
「もうやりません。だから…見逃して下さい!父さんに迷惑かけ…お願いします」
「知るかい」中葉は吐き捨てて少年の肩に腕を回す。「ほな、行くで」と強い力で彼の肩前部を掴んで、路肩に止めた自分の車の方へと向かう。
「見逃して下さい。父さんに迷惑掛けるワケには…」
必死に懇願する少年に、「お兄ちゃん、しつこいでぇ」と中葉は広い歩幅で足を進める。次の瞬間、いきなり少年が立ち止まりその場にしゃがみ込んだ。腕を掴んで立たせようとすれば、少年は過呼吸を起こしていた。
「しゃアないの」
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