第一章 樹下の接吻

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第一章 樹下の接吻

 月の明るい晩であった。  旧暦でいえば、弥生の十三夜。  ほんのわずか欠けた月は、煌々(こうこう)と惜しみなく地上を照らしていた。  吉田伯爵家の次女桜子は、その月あかりに誘われたように屋敷の庭園にそっと降り立った。    付文(つけぶみ)は無事届いたかしら。  もし、他の誰かが先にあの(ふみ)を見つけてしまっていたら……  一抹の不安を抱えながら、桜子は池の淵を回って、暗い中を庭外れのクスノキの大樹のもとに急いだ。  一邸宅の庭とはいえ、かつて大名屋敷であった敷地は広く、さらに緩やかに傾斜しているので、池の向こうまで行けば、人がいても母屋から見えないはずだ。  さらにそのクスノキは、樹齢数百年を越える、庭で最も大きな樹。  木陰はどこよりも闇が深い。  いくら今夜のように月が明るくても、二人の姿を隠してくれるだろう。  桜子は、はやる気持ちをどうにか沈めて、砂利の敷き詰められた小道を、なるべく音を立てないように注意深く歩いた。  髪型は当世風の結い流し。  背中に垂らした髪が風になびいている。
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