1 ヤスコさん①

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 だからこそつい、食指が動いてしまったのだから。 「あの、モエさん……でよろしいですか?メールで、録音しますと書かれていたんですけど、スマホか何かで?」 「本題に入る前にお話ししようと思っていたんですが、ごめんなさい、すっかり頭から抜けてしまって」  厳しい制限と、ヤスコさんの行動や考えに関する矛盾におどろき、私はすっかり唯さんに対して再確認するのを忘れてしまっていた。悪い癖だ。 「おっしゃる通り、スマホとICレコーダーでバックアップを取りながらの録音をさせていただきますが……差し支えありませんか?」  録音するとなると、メールでは承諾していても実際に目の前でICレコーダーやスマホのボイスレコーダーを出すと「やっぱり、ごめんなさい」と反故にされてしまうこともあるから、再度確認のために訊ねると、唯さんは「ありったけ、どんなことも、すべて録音してください」と頼もしい答えを述べる。 「来週には、以前泊めてもらった友人の住むマンションで暮らすことになっています。部屋は違うけれど、フロアは同じだからなにかと安心なんです。母からはずっと反対し続けられ、父にもあんなおびただしい数の猫をワンオペで世話するのはきついからとやんわり制されましたが、もうこれ以上、犠牲になりたくないんです。まるで猫のために、いいえ、母の自己顕示欲を満たすために虚無のなかで生活を強いられるなんて、もう嫌なんです」  ぐっと唇をかんで、結露にまみれた瀬戸内レモネードの入ったグラスを握りしめる唯さんの表情には、ちゃんとした覚悟が見て取れた。  私のほうも、いささか緊張している。  口の中がカラカラに乾いているし、わきの下からは変な汗がじんわりとにじみ出てきていた。先ほどまで、コーヒーショップ特有の、ききすぎた冷房で、二の腕が冷たかったにも、関わらず。
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