case1.M棟の幽霊

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 ☻  他の棟よりも奥まった場所に建つM棟は、昼間でも静かな場所だ。それが夜、閉門直前ともなると人一人いやしない。幽霊の噂も立つわけだ。暗い廊下を、あの日と同じように歩く。違うところがあるとすれば、一緒にいるのが樒だということだけだろう。  階段を上り、屋上の手前の踊り場に立つ。樒は自分のスマートフォンを操作し、イヤフォンを差し込む。片方を耳にはめるともう片方を俺へと差し出した。同じように耳にはめる。聞こえてくるのは、メトロノームの音。樒の「除霊」はいつも、メトロノームの音から始まる。 「それじゃァ、始めようかァ」  樒は俺の正面に立ち、左手で胸の辺りに触れる。 「リラックスして、ゆっくり呼吸をするんだ。……そう。メトロノームの音と僕の声を意識して、目を閉じて」  樒の言葉に従い、目を閉じる。メトロノームの音と、樒の声に集中する。 「一緒に10からカウントダウンするよ。0になったら目を開けて。それまでは絶対に開けちゃダメだよ」  頷く。樒が喉の奥で小さく笑うのが分かった。 『10』  俺は「除霊」を信じていない。こんなのは暗示と何も変わらない。 『9』  幽霊なんて存在しないし、死後の世界もありえない。 『8』  故に、樒はペテン師だと思っている。イカサマで、相手を信じさせようとしているだけなのだ。 『7』  樒が触れる胸の辺りがにわかに熱くなる。これだって、意識しているからそう感じるに過ぎない。 『6』  意識の奥から、何かを感じる。自分以外の何かが、ごぼごぼと音を立て上へ上へと浮かび上がってくる。 『5』  暗闇に浮かぶ、白い肌。黒髪のショートヘアの女。ぞっとする微笑みと、白目のない瞳。 『4』  場の空気が、明確に変わる。吐き気がするような重みと、真水のような冷気と、暴力的な狂気が混じりあった恐怖。 『3』  全身の感覚が研ぎ澄まされてゆく。首筋に、生ぬるい風を感じた。 『2』  背後に、何かいる。俺にぴったりと寄り添って。 『1』  背後の何かが、蠢く。 『0』  目を開ける。闇の中、樒が細い手首を掴んでいた。そしてその腕は、俺の背後から伸びている。白い長袖のブラウス。俺はそれに見覚えがある。 「掴まえたァ」  にやり、と樒が顔を歪ませる。とっさに振り向こうとした瞬間、ものすごい力が肩にのしかかる。何かに肩を掴まれている。骨が、軋む。 「ユユユギサキぐんんんん、ただすけけでててええぇえ」  耳元でひしゃげた声が響く。半狂乱の女の声。 「――――――ッッ!!」  幻覚だ。幻聴だ。樒のかけた暗示のせいだ。自分にそう言い聞かせながらも、心臓は確かに早鐘を打つ。 「樒」 「分かってるよォ」  樒は掴んだ手首をぐい、と引っ張る。ショートヘアの女の横顔が、俺の左側をすり抜けて樒の方へ引き寄せられる。 「わたししあわせになるのおおお!!! こんどこそおぉしあわせにいぃいい!!!」 「あっはは。そぉいうのどうでもいいや」  言って、樒は俺の胸に触れていた左手で女の額に触れる。 『ご冥福をお祈りします』  樒の声が踊り場に響く。その瞬間、断末魔の悲鳴と共に、女の身体はあっけなく霧散して消えた。
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