case2.紫陽花の花束

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 ☻  翌日。目が覚めると、カーテンの外から薄日がさしていた。晴天とまではいかないものの、雲間から青空が見える。蛇口は固く閉じ、奇妙な水溜まりも存在しない。  そして、毎日通るあの場所にも、紫陽花の花束は存在しなかった。全てが悪い夢であったかのように、平穏な日常は戻ってきた。  「除霊」の後、樒はしばらく手を離してくれなかった。いつまで握ってんだと言うと「もうちょっとだけェ」といつもの調子でおどけてくる。振り払ってやろうかとも思ったが、樒の手が微かに震えているのに気づいてやめた。ようやく手首を離したのは、それから三十分は経った後だった。 「で、誰がお前のものだって?」  落ち着いたところで話を振ると、樒は俺の椅子に腰掛け、足を組んでにっこりと笑う。 「えぇ? そんなに何度も聞きたいのォ?」 「俺は誰かの所有物になった覚えはないんだが」  じろり、と睨む。 「だァってああでも言わないとあの女諦めなさそうだったしさァ。そうなったらハセくんも僕も困るでしょォ?」 「それは……そうだけど」 「じゃあいいじゃん」 「良くはないだろ」  そうかなァ、と樒。何がどう「じゃあいいじゃん」なのか納得のいく説明が欲しいところだ。 「まァ、これで君の平穏は戻るはずだよォ。明日からは怪異も起こらないし、ハセくんについた匂いも元に戻る。僕のお陰だねェ」 「……もし、戻らなかったらどうする?」 「そんなの」  有り得ないね、と言いかけた樒の顔に悪戯な光が宿る。次の言葉がろくでもなさそうなことだけは察した。 「じゃあさ、ハセくん。こうしない? もし戻ってなかったら、僕はハセくんの言うこと何でもひとつ聞いてあげる。その代わり、ちゃんと日常が戻ったらさ、僕にハグしてよ」 「はあ!?」 「ハグだよ、ハグ。別にそれくらいはいいでしょ?」  嬉しそうに死んだ瞳に笑みを浮かべ、樒は軽く両手を広げる。予感的中、して欲しくはなかったが。何が嬉しくてこいつを抱きしめなければならないのか。 「……日常が戻ったらな」  はあ、と溜息をひとつ。今回の騒動の代償がそれで済むなら安いものだ。そして恐らく、平穏な日常は戻ってくるのだろう。こいつは分の悪い賭けはしない。樒 一総はそういう奴だ。 「明日が楽しみだね、ハセくん」  こころなしか弾む声に、俺はもう一度溜息をついた。  とうに予鈴の鳴り終えた構内で、俺は樒の姿を探す。いつもと同じ喫煙所、いつもと同じ場所で、樒はひとり、ぼんやりと宙を見ながら煙草をふかしている。背後から近づく俺に樒はまだ気づかない。そのまま肩を引き寄せ抱きしめる。樒は咥えていた煙草を落としかけ、それから「ハセくんの匂いがする」とどこか嬉しそうに呟いた。
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