case3.真夏の夜の夢

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case3.真夏の夜の夢

 蒸し暑い夜だった。  重いスーツケースを引きずりながら、山中を歩く。息は切れ、生暖かい空気が肺の中を往復する。汗がとめどなく頬や背中を伝う。一度立ちどまり、腕で額を拭う。また、歩き出す。  纏わりつく木々の深い緑の匂いと、どこからか漂う甘い花の匂い、湿った土とカビのような匂いが混じりあったそこに、スーツケースの中から血の匂いが漏れ出している気がした。確認するが、きっちりと閉まったスーツケースから中身が漏れ出している気配はない。人ひとりを押し込められるほどの大きなスーツケース。耳を押し当てても物音はしない。当然だ。中身は既に、――……。  どれほどの時間歩いただろう――ふいに立ち止まり、男は周囲を見渡す。恐らくここならば大丈夫だろう。山道から大きく外れたここならば、滅多に人も来ない。男は持ってきたシャベルを地面に突き立てる。がむしゃらに土を掘り起こす姿は恐らく、誰かに見られたら狂人だと思われるだろう。その推測は間違っていない。自分は狂人だ。そうでなければ説明がつかない。この期に及んで、後悔や恐怖よりも興奮が勝っているのだから。  ずっとこうしたかった。出会った時からずっと。それが禁忌であると自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、衝動は重く頭をもたげた。その甘い誘惑はいつしか全身を包み込み、蝕み、内側から自分を破壊した。荒い呼吸は疲労だけではない。確かな劣情がそこにはあった。  やがて穴を掘り終えると、男はそこにスーツケースを置いた。冷たいケースの表面を撫ぜ、そっとその口を開く。暗闇の中、ケースの「中身」が露わになる。胎児のように身を縮めたそれは、うっすらと光のない瞳を開き、鼻には出血の跡が見られる。白い肌、明るく染めた髪、二度と言葉を紡がないくちびる――男はそれらを舐めるように見つめ、再びケースを閉めた。そしてもう一度シャベルを手に持つと、今度はケースごと穴を埋めていく。タイムカプセルを埋めた、少年の日の喜びに似た感情が込み上げる。男は思わず笑みを零した。そうしてすっかりスーツケースを埋めてしまうと、今度は記憶の輪郭を辿る。ケースの中身、桃の花に似た髪の、その声と姿を反芻し、改めて実感する。  ああそうだ。とうとう俺は――俺はあいつを。――……。  生々しい夢を見て目が覚めた。手に残るシャベルを持つ感触。ひやりとしたスーツケースの重み。纏わりつく熱帯夜の空気。がくがくと身体が震え、頭が現実に追いつくまで数十秒かかった。荒い呼吸を整え、それから深呼吸をひとつして上体を起こす。見知った自室。枕元のスマートフォンで時刻を確認すると、既に昼近い数字が並んでいる。カーテンの向こうからは強い日差しが照りつけているのがわかる。微かに聞こえる蝉の鳴き声と、大きなビーズクッションに埋もれるようにして眠る男。 「(しきみ)」  声をかけると、樒はもぞもぞと動いてまた動かなくなる。昨晩今期最後のレポートを提出し、そのまま宅飲みの流れになった。空いたチューハイの缶が床に転がっている。500mlを二缶空けて早々に酔いが回ってきた俺とは逆に、樒は三缶目に手をつけても顔色ひとつ変わらなかった。とはいえ、酒が入っていることに変わりはない。起きないのは酒のせいか、それとも単にこいつの寝起きが悪いからなのか。 「樒、そろそろ昼」  ベッドから抜け出し、寝ている樒の肩を揺すろうとしてふと手を止める。悪夢の中に見た、スーツケースの中身と樒が重なる。――あの桃色の髪は、樒ではなかったか。  すると、閉じた瞼がうっすらと開き、光のない瞳が俺を捉えた。何度かの瞬きの後、んん、という声と共に手足を緩慢に動かし伸びをする。 「おはよう。……どうしたのォ?」  クッションに埋もれたまま、樒は死んだ瞳を僅かに輝かせ、俺の腕を掴む。 「まるで死人に会ったみたいな顔してるねェ。夢の中で僕でも殺したのかなァ?」 「死ね」 「あれ、当たっちゃった?」  冗談だったのに、と言わんばかりの樒を振り払い、勢いよくカーテンを開ける。本格的な夏の日差しの眩しさに目をしかめると、背後からぎゃああという樒の悲鳴が聞こえた。
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