case1.M棟の幽霊

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 ☻  バイト先から帰ると22時を少し回った頃だった。玄関で靴を脱ぎ、電気のスイッチを探る。大学近くの安アパートが俺の住処だ。コーポ404の102号室は適度に新しく、適度にボロい。風呂トイレ別のワンルームは一人暮らしには有難い物件だ。ここに越してくる時もひと騒動あったのだが、それはまた別の機会に話すことにしよう。とりあえず今は困ったことは起きていない。  室内にカバンを置き、とりあえずパソコンの電源を入れる。今週末までのレポートがふたつ重なっていた。どちらも落とせない講義なので、そろそろ片方だけでも形にしないと時間がない。カバンの中から実験のデータと参考資料のコピーを取りだし、立ち上がったレポートを前にカタカタと数行打ち込む。この考察さえ書いてしまえば、実験のレポートはほぼ終わったと言える。今日中に終わらせられるだろうか――そう思いながら画面に集中する。二時間ほどの格闘の後、考察部分は無事に仕上がった。 「んん……」  両腕を伸ばして宙を仰ぐ。途端に、強い眠気が襲った。頭をガツンと殴られたような感覚を覚える。確かに集中してはいたが、俺はこんなにも疲れていたのだろうか。布団に行くのも面倒だった。そのまま机につっ伏すと目を閉じる。 『早くしないと、そこのショートヘアの女に殺されちゃうよォ』  意識が完全に闇へと傾く前に、昼間に聞いた樒の言葉が呪いのように浮かんで消えた。  ☻  女だ。  女がいる。  研究室のドアを背に、黒髪のショートヘアの女が立っている。小顔の彼女にその髪型は良く似合う。白いブラウスははだけて、その隙間から白い肌とブラジャーのレースが僅かに見える。俺と同じ年頃――二十歳前後だろうか。子猫のような黒目がちの瞳が俺をとらえる。研究室の椅子に座る俺の姿を。  最近頻繁に夢に見る女。 「せんせい」  女のくちびるが動く。蚊の鳴くような声はしかし、甘みを帯びてしっとりと濡れている。 「せんせい、せんせい、せんせい……」  違う。俺は先生じゃない。そう口に出したくても、身体が鉛のように動かない。いつもそうだ。女はずっと、俺に向かって「せんせい」と呼び続ける。そして目が覚める。女の切なげな声だけが朝日に消えることなく耳に残る。 (人違いだ、ということだけでも伝えないと)  ほんの僅かでもいい。何か手段はないだろうか。そう思い、全身に力を込める。すると彼女はかくんと首を傾げ、それから、 「ユキサキくん」  ――――にいいぃぃぃぃ……  と笑った。  ぞわりと、全身が総毛立つ。何より恐ろしいのは、彼女が「せんせい」と同じトーンで俺を呼んだことだった。虚ろで、甘ったるい、愛おしいものを呼ぶ声。 「ユキサキくん、ユキサキくん、ユキサキくん……」  彼女は俺の名を呼びながらこちらへと近づいてくる。一歩一歩、ゆっくりと。そして動けない俺の前に立ち、頬に触れる。冷たい手だった。まるで真冬に氷の塊に触れたような、氷点下の手。 「ユキサキくん、こんどはしあわせになろうね」  何の話だ、と叫ぶこともままならず、俺の瞳は彼女だけを映し取る。女の両手がするすると喉元に落ち、じわりと力が篭もる。圧迫された頸動脈から熱を帯び、頭全体がぐらぐらと熱くなって、それから、――…… 「………………が、……ッッ……」  目が覚めるとパソコンの時計は四時を表示していた。全身にびっしょりと汗をかいている。  嫌な夢だった。いつも以上に生々しい。白い肌も、黒目がちな瞳も、俺を呼ぶその声も、首元に込められた力も、何もかもをはっきりと思い出せる。俺はふらふらと立ち上がり部屋の中を見渡す。あの女が、今にも部屋の隅から現れるような気がした。実際は、猫一匹いやしない。当たり前だ。あれは夢なのだから。  ひとまず顔を洗おうと、浴室の扉を開ける。洗面台の蛇口をひねり、鏡を見て、俺の挙動は完全に止まった。  首元を覆うように、赤黒い痣がくっきりと浮かんでいた。
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