case2.紫陽花の花束

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 ☻  それから、雨の日が続くようになった。梅雨に入ったのだから当然といえば当然だ。講義で家を出る時は必ず雨。平日も休日もお構いなしだ。夜は比較的晴れるものの、太陽を拝めないおかげで洗濯物が乾きづらい。あとひと月はこの天気が続くのかと思うと、多少なりとも憂鬱ではある。  通学中に見つけたあの紫陽花の花束は、翌日も翌々日も雨に濡れていた。俺が置いた傘は既に姿を消していたが、道端に添えられた彩りは消えることはなかった。いや、それどころか日毎に赤紫が鮮やかになっている気さえする。故人はよほど慕われているのだろう。顔も名前も性別も知らない他人だが、同情の念を禁じ得ない。  そんな六月の中旬、学食で顔を合わせた樒は「あれ?」と言って眉をひそめた。両手で持っていたパスタランチをテーブルに置き、俺の目の前の席に陣取る。 「消えてない」 「何が」 「お葬式の匂い。むしろ強くなってる。おっかしいなァ、すぐ無くなると思ったのに」  興味深そうに樒は言う。そう言われてもと俺は思う。特に何を変えたわけでもない。「葬式の匂い」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは線香の香りだが、部屋で線香を焚いた覚えもなければそもそも部屋に線香がない。 「樒の気のせいだろ」 「それは無いなァ。だってコレ、この世の匂いじゃないもん」 「なんだ。中二病が悪化したのか」 「自分が認識できないからって物事を切り捨ててると世界を狭めるよォ。注意しようねェ」  樒はケラケラと笑い、「それはともかく」と続ける。 「ハセくん、心当たりないのォ? ……そうだなァ、例えば死人に同情するようなことしたとかさァ」  そう言われてとっさにあの紫陽花の花束が頭をよぎった。その一瞬の表情を樒が見逃すはずもなく、「ほらやっぱり」という顔をする。 「俺はただ、花束が雨に濡れているのがしのびなかっただけで……」 「花束ァ?」 「アパートから大学に向かう途中にコンビニあるだろ。あの近くで、事故があったみたいでさ。紫陽花が供えられてたから」 「あ~~~、同情しちゃったわけだァ」 「するだろ普通。でも、傘を置いたのは一度きりで、あとは別に何も……」 「待ってハセくん。傘、置いたの?」  頷く。樒は目を閉じると何度か首を縦に振り合点がいったというように指を鳴らした。再び目を開けると半眼でじろりとこちらに視線を送る。 「なァんでそんなことしたのさァ。この幽霊たらし。どーせ今も気にしてるんでしょォ」 「悪いかよ」 「悪い。ひじょおおおに悪い。世の中にはねェ――これは人間同士でも言えることだけど――同情することでお互いに不幸にしかならない関係性もあるってことを、君はもうちょっと学習した方がいいね」  きっぱりと言って、樒は冷めかけたパスタに手をつける。珍しくむすっとした表情で一口食べ、頬杖をついてフォークをこちらへと向ける。 「これ食べたら案内してもらうから。拒否権はないからね」  有無を言わせない樒の口調に、俺は黙って頷くしかなかった。  ☻  しとしとと雨の降る中、樒と歩く。正直、事故現場を案内するというのは不謹慎極まりないと思う。いくらあの世の存在を信じない俺でも、良心や道徳心が不在なわけではない。そこには確かに、人が死んだ痕跡があるのだ。 「そこだよ。電柱の脇」  歩いて五分、少し離れた場所から見慣れた場所に置かれた紫陽花を指差す。雨に濡れた紫陽花は鮮やかな色で存在を主張している。ところが、樒は辺りをきょろきょろと見回して、 「……どこ?」  と呟いた。仕方なく紫陽花に近づき、もう一度位置を示す。 「ここだよ。樒お前視力いくつだよ」 「2.5」 「嘘つけ」 「1.0あるかないかくらいかなァ」  しれっと視力を修正してくる。 「で、ハセくんにはそこに紫陽花が置いてあるように見えると。ふーん。なるほどねェ~~~」  まるで自分にはそう見えないような口ぶりに、俺はややむっとして口を開いた。 「不謹慎だろ。ふざける場所を考えろよ」 「ふざけてないよォ。見えないものは見えないもん。その紫陽花何色? 赤紫?」 「何だよ。見えてるじゃないか」 「いいやァ? 見えてないよ」  樒はくつくつと笑うと、俺の腕を掴み、花束から遠ざける。死んだ瞳に光が差す。 「ねえハセくん。人間の血液ってねェ、弱アルカリ性なんだよ。赤紫の紫陽花にピッタリだよねェ」  どこか楽しげな樒の声。しかし、僅かに歪めた瞳は笑っているとは程遠い。 「僕から何が見えるか、知りたい?」 「…………何が見えるんだ」  尋ねる。樒は傘の中からそっと耳打ちする。他の誰かに聞かれまいとするように。 「片足のない女が、こっち見てる」  俺は樒の目線の先を辿る。鮮やかな紫陽花に女のイメージが重なり、ぞわっと鳥肌が立った。 「冗談、だろ……?」 「さァてね。信じないんでしょ?」  そう言うと、樒はくるりと紫陽花に背を向け、大学の方へと歩き出す。おい、と声をかけようとすると振り返り、 「祓って欲しかったら言いなねェ」  ひらひらと手を振り、今度こそ立ち去ってゆく。  俺は再び紫陽花に目をやる。同情の対象であったその花が、急に禍々しく思えた。
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