やさしい時間

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 (もえ)は赤ん坊だったころ、夜中にぐずることが多かった。  純子(じゅんこ)は目を覚まして身体を起こすと、暗闇の中で萌を抱き上げた。 「萌ちゃん」  よしよし、と身体を揺すりながらあやしてみても、萌は一向に泣き止まず、しまいには甲高い声を出し始めた。いつもと様子が違う。  薄い壁を一枚隔てた隣で寝ていた純子の母親が、襖を開けて部屋の電気を点けた。純子の目の前が真っ白になった。萌も一瞬泣き止んだが、また声を上げ始めた。母は、 「どうしたの萌ちゃん」  と手を萌に差し伸べ、純子から萌を受け取った。 「あら、熱い。熱があるんじゃないかしら」  純子は寝ていた布団を踏みつけ、ふらつきながら鏡台に向かった。一番上の引き出しを開けて水銀の体温計を取り出し、ぶんぶん振った。  それを母に抱えられている萌のわきの下にはさむと、母が、 「萌、ふるえてる。部屋を温めましょう」 と言った。  純子は布団を半分に折り曲げて、部屋の端に寄せていた石油ストーブを引っぱり出した。表の金網を開けて芯の部分を持ち上げ、マッチの火を近づけると、小さな炎がじわじわと広がった。水を入れたやかんを上に置くと、萌を抱いた母が純子に体温計を見るように言った。 「やだ、39度ある。どうしよう、お医者様に見せないと」  純子が壁の時計を見ると、午前二時を回っていた。母は萌を抱いて身体を揺すりながら考えていた。 「そうだ、熱さましが冷蔵庫になかったかい?」 「ああ」  純子は暗い廊下を通って台所へ行き、冷蔵庫の扉を開けた。庫内から白い光が飛び出してきてよろけそうになったが、手を伸ばして薬の袋を取り出した。 「あったよ」  部屋に戻ると、母は萌を布団の上に寝かせておむつを取り、純子は座薬をカッターで半分に切って萌に使い、清潔なおむつに取りかえて布団に寝かせた。首のつけ根までしっかり綿布団をかけると、萌は穏やかな表情を浮かべて眠りに入った。 「よかった」 「純子ちゃん」  母は純子の額に手を伸ばした。ひんやりとして気持ちがいい。 「やっぱり、あなたもちょっと熱いわ。萌を抱いて気づかないなんて変だと思った」  純子は、足元がふらつくのは寝起きのせいだとばかり思っていた。 「あなたはお薬飲めないだろうから、このまま寝て、少しでも身体を休めなさい。萌は明日、お医者に連れて行くから」 「ありがとう、お母さん」  石油ストーブの上のやかんの湯が沸騰して、しゅんしゅんと音をたてている。  純子は横になって、萌の横顔を見た。やわらかくてすべらかな頬が今夜は赤く染まって、呼吸が少し早く辛そうだ。純子は胸が痛んだ。 ――早く、よくなあれ。  萌の布団の上にそっと手をのせて祈った。  うとうとしていると、やかんがカタカタ音をたて始めた。中の水が空になったのだ。暑い。純子は身体を起こそうとしたが鉛のように重い。すると母がそっと部屋に入ってきて、ストーブを消し、やかんを持って出ていった。
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