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 闇に紫の光が差して、シルエットが浮かんだ。踊っている、男たち女たち。音楽のリズムがフロアを震わせる。スモークの漂う空間を赤い光線が走った。  DJが曲を変える。ダンスビートに乗った女性ボーカルがセンチメンタルで、玉村慎也には新鮮だった。シティポップと言うらしい。1980年代の音楽で2020年の若者が踊る。日本経済が世界一だった時代、誰もが今日より明日は豊かになれると信じていたそうだ。  慎也はクラブのカウンターで、ダンスフロアを眺めながら、グラスを口に運んだ。氷が鳴った。都心の雑居ビルの地下、隠れ家のようなクラブ。久しぶりだ。自宅のマンションを深夜抜け出して、ここに来た。ロックを喉に流しこみながら、踊る男女を見るともなく見ていると、日常の緊張と疲労がほどけて、体が闇に溶けていくようだった。  まるで深海の底にいるようだ、と慎也は思う。海底は落ち着く。帰るべき場所のようだ。昔からそうだった。  踊る男女が色とりどりの魚に見えて、慎也は水族館を連想する。去年のゴールデンウイークに、クライアント企業の女子社員の車で、その土地の水族館に行った。あの子は桐生愛という名前だった。ずいぶん昔のことのように感じる。構やしない。彼女も“普通の女の子” 俺が泣こうが喚こうが冷たく見下す、無言の人間の壁の一人に過ぎない。  そんな奴らはどうでもいい。気にしなくていいステージまで俺は上がった。タワーマンションの十五階、2LDKの部屋に一人で住む。もっと年収を上げて、来年は港区に引っ越したい。駐車場つきの物件を買って、赤い外車に乗りたい。それももう手の届くところまで来ている。  俺の未来は輝いている。快適で清潔な部屋に住む。なのに、どうして俺はそこを抜け出して、こんな地下クラブでひとり酒を飲んでいるのだろう。
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