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ハンドパンの導き
社運と私の人生をかけた絶対に失敗できないプレゼンがあと十分で始まる。そんな大事なときにもかかわらず、緊張で気分が悪くなってきた。
私は気持ちを落ち着けるために窓辺に寄り、外の景色を見た。眼下にはミニチュアのようなビル群と東京湾。天気は快晴。ここはとある高級ホテルの中の、小さな会議室だ。私の所属する株式会社星山コミュニケーションズのスタッフたちが待機している。
プレゼンの会場のホールは、この会議室と同じ階にある。すでにプレゼンの準備は終わっていて、来場者の案内などは他のスタッフに任せてあるので、私は開始時刻になったら向かえばいい。さっきのぞいてみたところ、すでにほとんどの席が各企業のお偉いさんたちで埋め尽くされていた。社外へのプレゼンは何度も経験しているけれど、今回は桁違いに事業の規模が大きく、失敗は許されないのだ。
「水無瀬さん、大丈夫っすか。顔色悪いっすよ」
いつも気の利く同僚の本田君が、私に声をかけてきた。
「ああ、うん、さすがに緊張してきたっていうか」
私は無理にでも笑ってみせようとしたけれど、強張った頬の筋肉はうまく動かなかった。見たところ、他のメンバーも口数は少なく、緊張している様子がうかがえる。
「水無瀬さんってまだ三十ですもんね。もし俺がこんな重要なプレゼンやれって言われたら、とっくに緊張で血吐いて倒れてますよ。水無瀬さん、ホント尊敬するっす」
本田君の冗談と励ましのおかげで、私は少し元気が出た。
私ももう三十歳。入社以来、仕事が第一と思って必死に頑張ってきた。このプレゼンが成功して、プロジェクトが軌道に乗れば、少し余裕ができるだろうと思っている。そうしたら、そろそろ仕事だけでなく、恋愛とか結婚とか、そういうこともちゃんと考えたい。
今は恋人はいないけれど、本田君みたいな人もちょっといいかもなと思い始めていた。もしくは運命を感じるような相手がいればいいのだけど。
「ありがと。本田君がいてくれて助かる」
お礼を言って、私は部屋の隅、壁付けに置かれた長テーブルの上の自分の鞄を見た。
鞄の中には、こんなときのための秘密兵器が隠してある。
誰にも見せたことはないけれど、辛いとき、苦しいとき、心が折れそうになったとき、『これ』のおかげで乗り切ってこられた。大きなプレゼンの直前には、必ずいつもこっそりトイレや更衣室で『これ』をなでなでしたり、眺めたりして、気持ちを落ち着かせる。私はそうやってプレッシャーを跳ねのけてきた。
『これ』があれば今回のプレゼンだって大丈夫。
そう思っていたのに。
私は目を疑った。
「……ない」
駅で電車に乗る前は、鞄は確かに三つあったのに、今は二つしかない。
鞄に駆け寄り、中を開けて確かめる。
ひとつは資料やプレゼン用のパソコンを入れてきた、会社の黒くて四角いビジネスバッグ。もうひとつは私の私物を入れている青くて小さめの鞄。三つ目の、大事な大事なグレーの鞄だけがない。部屋の中を見回してみる。他の人の鞄や荷物が他の長テーブルに置かれているけれど、その中に私が探している鞄は混ざっていなかった。
「もしかして、電車で……」
私のつぶやきと異変を察知して、本田君が再び近づいてきた。
「水無瀬さん、どうかしたんすか」
「鞄……私の鞄……電車に忘れてきたかも……」
いつもならその鞄を手放すことはないのだけど、今日は電車が混んでいたから、部長が網棚の上に置いてくれたのだ。それを忘れて電車から降りてしまったというわけ。今さら部長を責めても仕方がないし、悪いのは忘れた私だ。
私はきっと情けない顔をしていただろう。
本田君の目が驚きで見開かれた。
「た、確かに、もう一個、大きい鞄があったような」
「どうしよう……」
あまりにショックで私はふらつき、長テーブルに片手を突いた。気分の悪さに加えて、頭痛もしてきた。
「プレゼンとは直接関係がないけど、どうしても私にとって必要なものが、その中に」
「なら俺、今から駅に走って」
「今からじゃ無理だよ、あと八分で始まっちゃう」
「じゃあその鞄、何が入ってたんですか」
本田君に尋ねられて、私は本当のことを言うかどうか迷った。私はあの鞄の中身を他人に見せたことがないばかりか、それについて話したことさえない。当然ながら本田君にとっても寝耳に水なわけなので、へんな女だと思われるかもしれない。だけど、こんなことになってしまった以上、隠していても状況はよくならない。打ち明けることで何か打開策が見つかることを祈った。すべてはプレゼンを成功させるためだ。
「ハンドパン」
「ハンドパン?」
「そう。それがあれば、緊張なんて吹き飛ぶのに」
私はひどくなる頭痛に目頭を押さえた。
本田君の顔がぱっと明るくなった。
「このホテル、一階に売店あったっすよ。俺、ダッシュで買ってくるっす。何が挟んであるやつですか。クリーム? たまご?」
「ごめん、本田君。それサンドパン。私が必要なのはハンドパン」
「え? ハンドパンって何っすか」
「ええとね、ハンドパンっていうのは」
「何かあったのか?」
私たちの様子に気づき、今度は坂下部長が声をかけてきた。
「部長、水無瀬さんが大切なものを電車に忘れたみたいなんすよ」
本田君が説明する。
すると部長ははっとしたかと思うと、困り顔になった。
「僕が網棚にあげた鞄か」
「それなんです。あの中には、私の大切なハンドパンが」
「ハンド、パン?」
坂下部長は言葉を詰まらせ、数秒間固まったのち、ポンと手を打った。
「ああ、うちの娘が最近サバゲーにはまっているらしくて、そんなようなものを持っていたな」
「部長、それハンドガンっすよ。ボケてる場合じゃないっすよ」
本田君がかぶせ気味にツッコミを入れた。
私は「あんたもさっき間違えたでしょうが」と心の中で本田君にツッコミを入れた。
「そ、そうだ。ホテルの受付で借りられるんじゃないっすか。最近のホテルって、たいていの物は貸してくれるもんすよ」
本田君が両手を広げた。
「ダメ。ハンドパンが置いてあるホテルなんて、日本中探してもあるわけない」
「ここに、何か代わりになる物があるんじゃないか」
今度は坂下部長が言って、会議室内を見回した。ホワイトボードや公演台、テレビモニターや観葉植物などがある。
「その、ハンドパンとやらに似たものはないか?」
「ないです」
私は首を振った。部長は肩を落とし、
「そもそもハンドパンとやらは、どんなものなんだ?」
「ハンドパンっていうのは、形はUFOみたい、というか、どら焼きみたいで」
本田君と坂下部長が同時に眉根をひそめた。私はためらいがちに説明を続ける。
「小さめの傘を開いたくらいの大きさで、金属製で、叩くといい音が鳴る楽器です」
二人ともぽかんとしていた。
「部長、何かトラブルですか」
私たちのもとへ、部屋の中にいた他のスタッフたちも集まってきた。
腕時計を見ると、プレゼンの開始まであと五分ほどしかない。
しかも私の体調はさらに悪化し、立っているのも辛くなってきた。一刻も早くハンドパンをなでなでして心を落ち着かせないとまずい。思い切って恥を忍んで、全員に聞こえる声で尋ねる。
「すみません、誰かハンドパン、持ってないですか」
ハンドパン? なにそれ? どういうこと? パン? お腹すいたの? そんなふうにスタッフたちが言葉を交わす。だけどハンドパンという楽器を知っている人さえいないようだった。
いよいよ絶望的な状況になってきた。
みんなが私を心配して口々に声をかけてくれるけれど、腹痛まで襲ってきた。
ここにいても埒(らち)が明かない、と私は思った。それにこんな状態では、歩くのに時間がかかってしまう。移動を始めた方がいいだろう。
「そろそろ行きましょう」
私はみんなに言った。
「水無瀬さん、ここで休んでた方がいいっすよ」
本田君が私を止めようとする。
だけど私はその優しさを振り切って、
「小森さん、肩、貸してくれる?」
女性スタッフの小森さんに支えてもらい、よろよろとおぼつかない足取りで会議室の出入口に向かった。
汗がだらだらと垂れてきて、寒気がした。だけど歩みを止めるわけにはいかない。この日のためにみんなで協力して、時に徹夜までして準備してきたのだ。このプレゼンの出来次第で、私ひとりの将来だけでなく、会社の未来、そして、ここにいるみんなの未来までもが変わってしまう。
「うう、ハンドパン……プレゼン……ハンドパン……」
悪夢にうなされ、唇から勝手に言葉が漏れる。部長がドアを開けてくれて、私はだらりとうつむいたまま廊下に出た。
「ハンドパン……プレゼン……ハンドパン……誰か……」
フロアマットしか見えない視界がついに真っ暗になりかけた、ちょうどそのとき。
「あのう、大丈夫ですか」
知らない男性の声が降ってきた。
なぜか私の視界は急速に光を取り戻す。
私は顔をあげていた。
私と同年代の爽やかな印象の男性が立っている。凛々しいスーツ姿に似合わず、肩から大きすぎる紺色の鞄をかけていた。私が電車に忘れてきた鞄ではないけれど、丸っこく膨らんだ鞄の形には強烈な親近感を覚えた。
「今、ハンドパンとおっしゃいましたか」
男性は膝を突き、肩にかけていた大きな鞄をマットに下ろした。
「まさかハンドパンをお持ちですか」
私は震える声で尋ねた。
「ええ、ちょうど」
「触らせてください! 一分でいいので」
男性が鞄の長いジッパーを引くと、十円玉と同じ色のつやつやした曲線が現われた。UFOのような、どら焼きのような、ずんぐりしたボディは直径約五十五センチ。表面の中央の出っ張りと、周りを囲むように並んだ丸い九つのへこみ。私の青白い顔を映すそのスイス生まれの楽器は、よく使い込まれていながらも、しっかりとメンテナンスされていることがうかがえる。
これぞまさしくハンドパンであった。
背後で本田君や部長が「これがハンドパンか」と感嘆の声を漏らしていた。
「どうぞ」
彼はハンドパンを両手で差し出した。
私は小森さんから離れ、ひとりで膝を突き、両手で受け取った。
「ありがとうございます」
他人のハンドパンに触れるのは初めてだった。
目を閉じて、磨かれた滑らかな曲面に手を這わせる。金属の冷たさと、すべすべした心地よい手触りに、うっとりする。およそ五キロのずっしりとした重量感も、私に安心を与えてくれる。ここが自宅なら膝の上に置いて、手でぽんと叩いて音色を味わうのだけど、今は時間がないし、仕事中なので演奏なんてしている場合ではない。でも、きっとすごく涼やかで素敵な音がするのだろうな、と想像できた。持ち主の優しさや誠実さ、そしてハンドパンに対する愛が伝わってきたのだ。
ほんの数十秒、触れていただけなのに、私の体調不良はみるみるうちに改善され、頭痛も腹痛も嘘のようにおさまった。緊張も消え去り、私は小鳥のさえずる森の中で森林浴をしているような、リラックスした気分になった。
「……ありがとうございました。もう大丈夫です」
私はまぶたを開いて、ハンドパンを彼に返した。
「お役に立てたようでよかったです」
彼は爽やかな笑みを浮かべる。
私は別の緊張でドキッとした。
「でも、どうしてハンドパンを持ち歩いているのですか」
私は気になって尋ねてみた。こんなに重くてかさばる楽器、普通は持ち歩かない。
「もちろん普段は絶対に持ち歩きませんよ。ただ今日は不思議と、持っていかなきゃという気持ちになったんです」
その言葉を聞いたとき、ああ、きっと運命なんだ、と思った。
私が今日ハンドパンを電車に忘れたことも。彼が今日ハンドパンを持ってきたことも。すべてはハンドパンが私たちを導いてくれたに違いない。
私はポケットから名刺入れを取り出し、彼に名刺を差し出す。
「私、星山コミュニケーションズの水無瀬加奈と申します」
彼は私の名刺を受け取り、ポケットから自分の名刺を取り出して差し出してきた。
「わたくし、月島コンサルティングの加賀太一と申します」
「ハンドパンの導き、ですね」
私は名刺を受け取り、彼の顔を眺めた。
彼もまた、名刺ではなく私の顔を眺めていた。
「ええ、ハンドパンに導かれたみたいです」
私たちは互いの名刺を大切にしまった。
「では、大事な仕事があるので。これで失礼します」
私は男性――加賀さんに会釈をして、廊下を歩き出した。向かうはプレゼンの会場である。腕時計に目をやると、開始時刻の一分前だった。ちょうどいい時間だ。
「水無瀬さん、もう大丈夫なんすか」
本田君たちが慌てて追いついてきて、私の隣に並んだ。部長や小森さんも、ほっとした様子だ。
「ばっちり大丈夫。ハンドパンに癒されたから」
私は笑顔で返した。
あとで加賀さん――ハンドパンの導きによって出会えた運命の人に連絡しよう。そして、もう一度会いに行こう。電車に忘れてしまった自分のハンドパンを取り戻してから。
そのためにも、まずはこのプレゼンを軽く片づけてしまおう。
今の私は無敵だ。自信にあふれていて、すべてがうまくいくという確信があった。
「みんな、行くよ」
私はメンバーを鼓舞し、会場の扉を開け放った。
おわり
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