皇女の切望、騎士の献身

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 皇女エレクトラは番犬を飼っている。  黒い髪と深淵のように暗い目を持つ美しい番犬だ。骨の髄までエレクトラに忠実で、小腹が空いたと思えば命じる前に果実が山ほど乗った皿を持ってくるし、退屈だと思えば口に出す前に馬に乗せて連れ出してくれる。  この姫君が番犬を手に入れたのは、十三年前のことだった。  雪と泥と血にまみれ、誰にも気に掛けられなかった非力な子供は今や、帝国中の女性が長いまつげをパチパチ煽ぐ熱視線の先にいる騎士となった。  しかしエレクトラは知っている。  その騎士の視線の先にいるのが、常に自分だけだということを。  そして、これも知っている。  自分が名前を呼べば、鉱石のような目が少しだけ熱を帯びて、柔らかくなることを。 「ゾラ」  姫君が差し出した白く頼りない手を、ゾラはいつものように取って跪いた。  欲にまみれた人間が(ひし)めく張りぼてのような宮殿で、ゾラにとって価値のあるものはただひとつだ。そして自分は、その完璧な番犬に他ならない。  ゾラは馬車を降りた姫君の手の甲に口付け、ダイアモンドの輝く靴の先に口付けをした。まるでそれが当然の挨拶でもあるかのように、空気を吸って吐くほどの自然な行為だ。  周囲の好奇の目など、姫君は気にしたことがない。  なぜならば、ゾラは幼いエレクトラが雪深い森で拾ってきたときからそういう存在だ。  エレクトラだけに骨の髄まで忠実で、姫君のためなら何をするのも厭わない。何を恥とも思わない。  ゾラがそういう存在である以上、主人であるエレクトラもそういう存在なのだ。  エレクトラは堂々とマントを翻す騎士のエスコートで大理石の宮殿に足を踏み入れた。楽隊が切なく華やかな舞踊曲を奏で、煌びやかな衣装に身を包んだ高貴なる人々が円を描いて舞っている。みな皇女に恭しい礼をして、その美貌に見蕩れた。  周囲を見回すゾラの目は、軽蔑に満ちている。宮殿の大人たちがどういう目でエレクトラを見ているか、知っているのだ。  白金色の美しい髪と蜜色の目を持った、大陸で最も高貴な血を受け継ぐ女、それが皇女エレクトラ・ドレクスだ。  或いは、帝国の財産、更なる富を呼び寄せるための売り物、可憐で美しい器、子を成すことのできる健康で高貴な処女とも言える。  エレクトラの実体を愛し、慈しむものは、ここにはいない。――ただ一人を除いては。 「怖い顔。舞踏会なのよ」  秘めやかな笑みが、腕から伝わってくる。 「舞踏会?」  ゾラが嘲笑った。灰色の目は暗い怒りに翳っている。 「あなたの買い手を決めるための競売場だ。薄汚いブタどもが――」 「不敬罪で死刑になる前にお口を閉じなさい」  エレクトラがピシャリと言った。咎めていると言うより、騎士の悪口を楽しむような響きが、その声にある。 「どのみち、わたしには今夜買い手がつくわ。皇帝陛下も既に目星を付けているでしょう」  エレクトラの視線の先には、赤い織物の絨毯を踏みつける黄金の玉座がある。  鎮座するのは、蛇のような目をした老父だ。金の王冠が白く波打つ髪に輝き、品定めをするように階下の男たちを眺めている。 「あなたが命じればあの老いぼれを殺してやるものを」  ゾラの暗い目がギラリと光った。 「お前のそういうところ、大好きよ、ゾラ。でも割に合わないことは嫌いなの」  この聡明な皇女が何を天秤に掛けているのか、ゾラは知っていた。小さな苛立ちが胸に燻っているのは、そのためだ。  一度くらい、物のように扱って使い捨てて欲しい。そのために存在し、この無益な人生を生きながらえているというのに、唯一無二の主人は自分をそういうふうに扱ってはくれない。何度使い捨てられたって、エレクトラの元へ必ず戻ってくるというのに。――  思えば、エレクトラは昔から自分の望みを口に出すことはしなかった。  だからゾラがいつも先回りをする。エレクトラの望みを、誰にも先を越されずに叶えるためだ。  エレクトラの蜜色の目がゾラを見上げ、太陽に輝く雪原を見たように細まった。添えられた腕が少しだけ力んだのは、ダンスへの誘いだ。  ゾラは迷いなくエレクトラの前に跪き、銀色のレースで覆われたドレスの裾に口付けをした。  二人のダンスは、まるで蝶が舞うように軽やかだ。エレクトラは足を踏む心配などしなくてもいいし、次のステップを考える必要もない。  全てゾラがエレクトラを導いている。かつて、雪の上で出会った五歳のエレクトラは、ダンスはおろか読み書きもできない七歳のゾラにとって、幼くて可愛いダンスの先生だった。  今は、違う。  ゾラがエレクトラの細い腰を抱き寄せると、エレクトラは腰を弓なりに反らせて体勢を戻し、くるりと一回転して元のステップに戻った。  皇女と騎士は注目の的だ。どんな絢爛な衣装を身に纏っても、この二人ほど目立つことはない。大きな宝石も冠も身につけないエレクトラが軽やかなレースの裾を翻して白金色の髪を靡かせるだけで、この世の輝きが全て彼女に集まるようだ。 「ふふ。ゾラ」  花が咲くように、エレクトラが笑う。 「わたしの夫になる男は、どんなに地位が高くてもあなたほどダンスが上手じゃないでしょうね」  ゾラは黙した。  この言葉に、エレクトラの言葉にならない望みが隠れている。  ダンスが終わった。  ゾラはその後、エレクトラが仰々しいほどに着飾った高貴な男たちと優雅に踊るのを壁際で見守った。彼らが夫の候補だろう。みなエレクトラを見てはいない。その美しい容貌と、ドレスの下の若い身体と、帝国の血を欲しがっている。  幾人もの貴婦人からダンスの誘いを受けたが、全て黙殺した。  ゾラがこの場にいる意味は、エレクトラだ。 (俺のエレクトラ…)  いくつも年上の男と踊るエレクトラと視線が絡んだ。  こんなことは初めてではない。それなのに、何か天啓を受けたような、雷が落ちたような衝撃が、脳に響いた。息もできないほどに身体中が痛くなった。  蜜色の目が、叫んでいる。  気付いたときには、脚が勝手に動いていた。  男の腕から略奪するようにエレクトラの腕を掴むと、ゾラは軽々とその身体を抱き上げ、周囲に殺人者のような目を向けていた。 「皇女は体調が優れない。今宵はこれで失礼する」  見上げた皇帝の目は、不気味なほど静かだった。  夜気が肺を満たしたとき、エレクトラはゾラの胸に顔を押し付けた。 「やっとね」  小さくすすり泣くような声で、エレクトラが言った。初めて聞く声だった。 「やっと攫ってくれた」 「あなたの望みなら何でも聞く。言葉にしなくても」 「それなら、これは?」  蜜色の目の奥が激しく燃えて、ゾラの目に飛び込んできた。エレクトラの嫋やかな腕が首の後ろに絡み、柔らかく甘い唇が重なってくる。  全てを捨てて、わたしを奪って。――  確かにエレクトラは、そう言っていた。全身で、身体が溶け出しそうなほどの熱を持って、声なく確かにそう言っている。  ゾラは愛おしい女の身体を抱え、宮殿の敷地の反対側にある皇女の離宮へ入った。使用人は誰もいない。舞踏会のために明朝まで出払っているのだ。  深まる夜闇が、世界から二人を隠した。  エレクトラの足が床に着いた途端、強い引力が働いたように、ゾラの腕の中にいた。  ゾラの腕、ゾラの声、ゾラの匂い。  幼い恋から欲望に変わったのはいつだったか、もう思い出せない。一番近くにいるのに、触れてはいけない気がしていた。一線を越えたらきっと、永遠に離ればなれになってしまう。  しかし今宵、捨てる決心をした。ゾラを捨てる。命がなくなってもいい。その対価に得るものを考えれば、割に合わないということはない。  きつく抱き締めてくるゾラの手が腰を這い、もう片方が顎に触れて唇を重ねてくる。エレクトラは甘美な吐息を漏らして口付けに応え、歯の間に潜り込んできた舌に自分の舌で触れた。  まるで肌の上を生き物が走って行くように、不思議な痺れを感じた。獣のように激しく襲ってくるのに、ダンスの時のようにやさしく触れてくる。 「気持ちいい、ゾラ…」  エレクトラが唇の触れ合う位置で言うと、ゾラの動作は火がついたようになった。  かわいそうなエレクトラは理解していない。今までどれほど下劣な妄想を抱いて、頭の中でその清らかな身体を穢したか。それが現実になろうとしていることでさえ。  もうどうなってもいい。エレクトラが望むなら、どうしてこれを止められようか。この一夜のために死ぬことは怖くない。エレクトラがこの世に存在し続けるのなら、無価値な自分は明日朽ちても構わない。  高貴な皇女のドレスは床にうち捨てられた布きれと化し、ベッドの上の皇女は、獣に貪られる無垢な女になった。  丸い乳房がゾラの手のひらの下で熱く色付き、絡む舌から粘性の音が立つ。苦しそうに喘ぐ姿でさえ、この世の何よりも綺麗だった。ゾラの舌が鎖骨の線を辿って胸へ下りていくと、エレクトラが小さく呻いて黒い髪の中に指を挿し入れた。  重たい騎士の上衣をエレクトラが丁寧に脱がして、シャツの下の硬い肉体に触れた。素肌の触れ合う部分から淡い痺れが生まれ、互いの存在をますます強く感じさせた。  ゾラは乳房の実を啄んだ。まだ誰も知らないエレクトラの甘い声が、ゾラの官能を狂わせる。柔らかな腹の下の泉は既に濡れて、そこにゾラを迎え入れるのを待っていた。ゾラの指がエレクトラの蜜で濡れ、熱く熟れ始めたその奥が、ゆっくりと蠢動している。  ぞくぞくと背に興奮が昇った。  ゾラがエレクトラの内部を探り、入り口の実に蜜を塗りつけて柔らかく擦ると、甘い悲鳴が耳を満たした。 「ああ、ゾラ。なにか変…」 「いっていい」 「…っ、あ――!」  根元まで埋まった指が、痛いほどに締め付けられて激しく濡れた。 「エレクトラ。俺の、エレクトラ…」  聞いたこともないゾラの声だ。懇願するように、切望するように熱っぽい声色だった。エレクトラの胸が苦しいほどに痛くなり、硬い筋肉で覆われた広い背を、腕をめいっぱいに広げて包んだ。 「お前のものよ、ゾラ。ずっと」  くらくらするほどの快楽のうちに、エレクトラはゾラを体内に迎え入れた。激しい痛みが腹の下を襲い、硬く膨張した熱が、内部に焼き付くほどの衝撃を与えてくる。  嵐の海に放り出されたような激しさだ。エレクトラが身体の緊張を始めると、ゾラは激しく抉るような強さでその奥を突いた。  エレクトラは甘美な悲鳴を上げ、重なり合った肌の熱に身体を震わせて、ただの男と化した番犬の熱を身体の中に切望した。同時に胸を啄まれ、指で秘所を弄ばれて、激しい絶頂が襲ってくる。  絶頂の瞬間、ゾラのと視線が絡まった。檻のように重たい銀色の目がエレクトラを射貫く。息もできないほどに苦しくなって、エレクトラはとうとう悲鳴を上げて意識を頭の上に放り出した。  強すぎる快感が、心の中を空にしてしまう。ただ一人の男を除いて。――  ゾラが身体の中に満ちたとき、あの雪の日に救われたのは自分だったことを知った。この男こそ、枷のような人生から自分を解き放ってくれる存在だったのだ。  翌日、ゾラは戦地に送られた。  国境付近の激戦地で、前線を指揮する将として、皇帝の捨て駒にされたのだ。  エレクトラは泣かなかった。互いに覚悟の上で、人生で唯一価値のあることをした。それこそ誇りだ。  それから三か月後、エレクトラは海上の小国を治める老人の妻になった。貿易で栄えた南の島の王は、命こそ短いものの、果てしない富を持っていた。夫が老体のため夜伽をしなくても良いという一事が、この国に嫁いで唯一の利点だった。  ふた月後、ゾラが派遣された国境地帯の砦が陥落し、兵が全滅したと報せを受けた。エレクトラは冷たい浴槽の中で枯れるほど涙を流し、それ以来侍女にも夫にも、誰にも涙を見せることはなかった。  五年経って、夫が死んだ。  子を成すことのないまま小国の王の未亡人になった皇女は、親族の跡目争いに巻き込まれ、海辺の寂れた古城に追い遣られた。  誰も会いに来ないし、手紙も届かない。それでも帝国の皇女であった時よりもずっと自由だった。海を眺めながら静かに死を待つ生活も悪くない。  望みはあの日、全て叶えた。そしてその瞬間に人生は終わったのだ。  それから間もなくして、この古城の船着き場に異国の帆船がやって来た。  船員数十名を従えた船長は黒いマントを羽織った黒髪の偉丈夫で、片眼がなかった。しかしそれすら魅力になるほどの男前だったと、城の女中たちが色めき立った。  そしてエレクトラはこの日以降、古城から姿を消した。  最後に彼女を見た者は、こう言った。船から下りた黒髪の男が、美しい未亡人の足元に口付けをして、船に連れ去った。  彼女は今まで誰も見たことのないような幸せそうな顔をして、その胸に飛び込んでいった、と。
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