追憶乃陰

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追憶乃陰

 静かな新月の夜。  人気の途絶えた小高い丘に俺は居た。  3畳ほどの大きさの緋毛氈(ひもうせん)の上に胡座(あぐら)をかいて、ぼんやりと篝火(かがりび)を見つめる。  篝火は、俺の座す緋毛氈の、左前と右前にそれぞれ一つづつ備えられており時折、パチパチと音を立てて、小さな火の粉を巻き上げる。  (りん)…  漆黒の闇の中から澄んだ鈴の音が一度だけ聞こえる。  俺の心がギュッと締め付けられる。  苦しいとも悲しいとも判断できないそんな感情が溢れ出そうとしてくる。 「━━様…お時間でございます」  いつの間にか、俺の右隣に現れた巫女装束の女性が、三指を突いて俺に(うやうや)しく座礼する。 「日和媛(ひわひめ)か…なれば、もう既に燈月媛(ひづきひめ)は…。」 「左様にございます…もはや(くつがえ)りませぬ…。」 「何としてもか。我が申してもか…。」 「はい…もう、何も変わることはありませぬ…成れば……。」  日和媛と呼ばれた巫女装束の女は、すっと背筋を立てると、傍らに用意してあったのであろうお銚子(ちょうし)を、闇夜に浮かび上がるほどに白くしなやかな指でそっと持ち上げる。  俺は無言で、朱塗りの盃を手に取ると、日和媛が銚子を傾け酒を注ぐ。  燐…燐…燐…  今度は3度、鈴が鳴る。 「時告風(ときつぐかぜ)(あまね)く星の絶えなれど」  闇の中から溶け出すように、静かで優しく、そして張り詰めた声が流れ出す。  規則正しいリズムで、その場に居合わせるすべてのものに染み入るかのように。 (燈月媛……)  俺は声の主を知っている。  日和媛の妹、俺の最愛の人。  神楽鈴の音が激しさをまし、篝火の灯火の端に、燈月媛の姿。  火の光に照らされ、赤く輝く巫女装束。俺が見慣れた顔は、黒い狐の面で隠されている。  姉に似た、白く細い指に握られた神楽鈴が、規則正しく音を刻む。 「三柱(みはしら)の神なる内に委ねれば我が身我が世の健やかぞなれ」 「今宵今生(こよいこんじょう)相別(あいわか)れ、汝の成すべき事を成し。吾尽(われつ)くるまで其れを忘れじ。」  燈月媛の詞に、己の言うべき言葉を重ねる。  悲しみも、苦しみも、最愛の人を手放す辛さも、使命の名のもとに封じる。  右手に持っていた、空になった盃を、一度高く掲げる。 「おさらば…媛…」  小さな声で最後の別れを告げる。  微かに燈月媛が頷いたように見えたのは、俺の希望が見せた幻影なのだろうか。  俺は勢いよく右手を振り下ろす。  パシッと軽い音を立てて、打ち付けられた盃の割れる音がした。  今生での燈月媛との別れを告げる、小さな儚い合図で
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