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変ること無き理
奇妙な夢を見たせいなのか、あれから私は寝付くことが出来ず、外が少し明るくなり始めた辺りで布団から出ることにした。
少し乱れた寝間着の裾を手で直すと、傍らにある衣桁に掛けてあった羽織を手に取り、袖を通す。
「主様、もう起きられますか?」
宿直の女官の声とは違う声が聞こえたので、私は軽くうんと返す。
「失礼してもよろしいでしょうか。」
再度問いかけの声が聞こえたので、私は先程と同じようにうんと返す。
失礼しますと言う声とともに、静かに障子が開かれた。
そこには巫女装束に身を包んだ女性の姿があった。恭しく三指を突いて此方に礼を施している。
闇よりも深い漆黒の髪が、真っ白な巫女装束に映えている。
「月音か…おはよう。」
声の主の正体を知り、私は心から優しく声をかける。
月音はゆっくりと上体を起こすと、此方を見て少しはにかんで、おはようございますと返してくれる。
「陽奈美はどうしている?この所あまり見かけないが。」
「姉様は…その…私に気を使ってくださり…。」
白いを通り越し、血色がないのではと思うほどの月音の顔に、ほんのり朱が差す。
そんな月音の仕草に、胸の中がほんのりと暖かくなった私は、そっと右手を伸ばして此方においでと声をかける。
月音は少し逡巡をしたものの、ゆっくりと立ち上がり、楚々とした足取りで私の方に近づいてきて、2歩ほど手前で足を止める。
恥ずかしいのだろうか、私の方を見ないように視線を外しているが、先程よりさらに頬が赤くなっている。
私にしか見せない月音のこの表情、愛おしいと想う。
私はそっと手を伸ばして、月音の細い腰を抱き寄せる。
「主様!」
短い声を上げるが、私は遠慮することはなく、そのままそっと月音を腕の中に抱きしめる。
月音はいつも花の香をさせている、それも派手な香りではない。鈴蘭のような控えめでいながら清涼な香り。
そういえば月音は、香道が趣味だったなと、ふと思い出す。
私の腕の中で、月音がハァと短く吐息をはく。
私は月音が愛おしくなり、その髪に顔を埋める。
月音の髪はいつも冷たい。月のない夜のように漆黒の髪とその冷たさは、彼女の名の通り、何処か夜を感じさせる。
私は月音を愛おしく思っている。
契るのであれば、月音だと思っている。
陽奈美は確かに、誰からも好かれる魅力的な女性だと想う。
外見の美しさも、居るだけで花がある存在感も、優しくて朗らかなところもおそらく他の人から見れば魅力的なのだろう。
だが私は、昔からそんな姉の後ろに控えて、目立とうともせず、しかし誰よりも気遣いができて健気な月音の事を好いていた。
「月音…黄泉坂の宵宴の夜、私と契ってはくれないか。」
黄泉坂の宵宴
黄泉坂祭の1月前に、主役と側女から選ばれた女性が契りを結ぶとされる日。
その日に契りを交わし、本祭までの1月を共に過ごし、夫婦の情を深めておかねばならないと言われている。夫婦の情を高めることで祀神の御神力を高められるのだとか。
(また…私なのですね…)
聞こえないほどの小さな声で月音が何か呟いた。
私はそれが聞き取れず、月音に聞き返したのだが、月音はなんでもありませんと、悲しげに頭を振るだけであった。
「嫌…なのか?ならば無理強いはしたくない…。私は本当に月音を愛おしいと思っている。だからこそ、月音も同じ気持ちで私を受け入れてほしい…だから無理なら。」
「主様…幼い頃からお慕い申し上げていた貴方様に求められて…嬉しいに決まっているではありませんか…宵宴で、私を貴方のものとしてくださいまし…。」
柔らかく微笑む月音。
しかし何故だろうか、その瞳は深い悲しみに彩られていた。
姉を差し置いて自分が選ばれたことを悔いているのだろうか…。
けれども私は、自分の気持ちを偽ることは出来ない。
幼い頃より、ただの一度も揺れることなく、月音を見てきたのだから。
月音以外の女性と契るつもりなど、毛頭ないのだから。
「主様…朝餉の用意をしてまいりますので…御離し下さいませ。」
私の腕の中で、月音が身じろぎをする。
長く抱きしめすぎていたのだろうかと、不安になりそっと彼女を見る。
その瞳には変わらず、悲しみと寂しさの入り混じった色が浮かんでいた。
私は、彼女が契を望んでいないのではないかという不安を払拭することが出来ぬまま、彼女の望み通りその抱擁を解くしか無かった。
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