交錯

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交錯

 それからの日々は穏やかに過ぎていった。  日がな一日、日が昇っている間は祭りについての知識を学び  日が落ちると月音と共に就寝までの時間を緩やかに過ごす。  口数が少ない月音では有ったが、それでも私が何かを話すと、一生懸命に話を聞き、興味深そうに相槌を打ち、必要であれば感想や意見をくれる。  控えめな月音らしい振る舞いに、私は胸がときめくのを感じていた。  そうして穏やかな日々を過ごす中で、私は宵宴に出す必要のある書類を作成していた。主の欄に自分の名前を書き、契の欄に月音の名を書こうとして筆を止める。  本当に良いのだろうか、時折浮かない表情を浮かべる月音のことを思う。  本当は嫌なのではないだろうかという不安が、頭をよぎる。  私は思案し、応えが出ないことを悟り、女官に月音を呼ぶように命じた。 「御呼びでしょうか、主様」  ほんの僅かな時間で、月音が私の前に姿を表す。  湯浴みをした後なのだろうか、巫女装束ではなく桔梗柄の浴衣を着ていた。  それが月音によく似合っていて、私は言葉を忘れて彼女を見つめていた。  そんな私の様子に、彼女は怪訝そうな表情を浮かべて旦那様と呼びかける。  小首をかしげた時、彼女の髪が浴衣の肩口からサラサラと零れ落ち、その姿が本当に神秘的で、私は思わず息を呑んだ。  思わず、彼女を抱きしめそうになり、必死にその衝動を抑え込んだ。 「月音…私は血縁書(けつえんのしょ)に君の名を書くつもりだが…。」  そこで言葉を止めて、月音の表情を伺う。  血縁書という言葉が出た瞬間、ほんの僅かに月音の顔がこわばったのが見えた。  微かに唇が引きつったのが解る。 「その様子、やはり嫌なのだろうか…私は君が嫌なら…。」 「嫌ではありません…それに主様が決めたことに異論を唱えることは許されません。それが決まりでございます。」 「月音、決まりなどどうでも良いのだ。私は心の底から君と添い遂げたいのだ。本当に君のことを愛おしく思っている。だから無理やり君と契りたくはない。」  私は真心を込めて彼女に告げた。  月音は少しの迷いの後、柔らかな笑みを浮かべた。 「私の本心を申し上げます…私は主様を、幼少の頃よりお慕い申し上げておりました。姉が主様に同じ思いを持っていると気づいてから、この想いを抑え込もうとしておりましたけれど…私も主様と契りとうございます…。」 「月音…ありがとう。では血縁書に君の名前を書く。いいね?」  月音は静かに、しかし確かに首肯した。  私は筆を執り月音の名を書面に記した。  これを長に手渡し、神前に奉納すれば私は月音と夫婦となり、契りを交わすことが出来るのだと思うと、胸が高鳴った。 ━━━━━━  主様の妻となれることは心の底から嬉しいこと。  幼き頃よりずっと、それこそ主様ではなく名前で呼び合っていた頃からずっと思っていた相手なのだから。  姉様が懸想をした相手とわかり、この想いは絶対に実らないと思っていた。  だから、今こうして、主様が私を契りの相手として記すと仰ったことに嬉しさしか無い。  けれど、主様は知らない。  この黄泉坂祭の本当の儀式のことを。その意味を。  だから私は嬉しい反面、悲しい気持ちも抱いてしまうのだ。 (何を考えているの月音、たとえ一月でも良い。主様の寵愛を受け、私の想いを成就させることが出来るのだから。)  何度も自分に言い聞かせる。  だけどもずっと抑え込んでいた想いが叫び声を上げるのだ。  これほどの時間、想い続けてその願いが叶うのに、一月しか共にいられないなんて理不尽だと。  選ばれたのは私だけれど、結局最後に勝つのは姉様なのだ…  ふと暗い気持ちを抱いてしまう。主様と同じくらいに大好きな姉にそんな気持ちを抱いてしまった自分を嫌悪する。  心はままならぬもの…その心に従うもまた苦悩の道、成れどその心を欺くのもまた苦悩の道。貴方はどちらの苦悩を受け入れ、どちらの苦悩を諦めるのかしら  葦原殿に向かう時に、姉様が私に言った言葉が脳裏に蘇った。 (姉様…私は…私は、どちらを選んでも辛うございます…どうすれば…)  一滴の涙がこぼれ落ちる。  私の懊悩はいつまでも消えない。おそらく黄泉坂祭の日までずっと…
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