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 夜の森は驚くほど静かだ。梟が喉を震わせる声、夜風が木の葉を揺らす音。そして私の足が土を踏み締める音しか聞こえない。  魔法で作った灯りが浮遊し、私の行く道を照らしている。一際目立つ大木の側までやってきて、足を止めた。  ここには先代から引き継いだ、精霊の世界へと繋がる扉がある。  精霊界と人間界、それぞれの世界の境界を守ること。  それが“魔女”の、最も重要な役割だ。    師匠と出会ったのは、もう五十年以上も昔のことになる。  元々私は孤児だった。赤ん坊の頃、木の下で泣いているところを、先代の魔女である師匠に拾われた。後で知ったことだが、彼女はもう随分と長い時間を生きていたらしい。  私はただ彼女を母のように思い、共に森を駆け回って遊んだ。  魔法も私にとっては身近なモノ。自分もいつか母のようになって、自由に魔法を操るのだと。  そう信じていた私に、師匠はよく語っていた。  魔女の役目とその運命について。 『魔女とは、人ならざる者“精霊”と契約し、力を得た(ひと)のことよ。その代わりに魔女は、私たちの世界と精霊たちのいる別世界、その境界を守らなければならないの』  別世界の住人が、間違ってこちらへ紛れ込まないように。反対に私たち人間が、別世界に迷い込まないように。  そしてお互いがお互いに危害を加えないように。  魔女は二つの世界とそこに生きる者たちを、守らなければいけないのだ。  その為に“魔法”という力と、普通の人間よりも永い時を生きる権利を得たのだから。 『私はもうすぐ役目を終える。色々なことがあったわ。でもどんなに辛いことがあっても、魔女である以上、決して涙を流してはいけない。それは、とても苦しいことよ』  今になって思えば、師匠は私を魔女にしたくなかったのだろう。静かな眼差しでそれを語る彼女の顔は、造り物のように美しく恐ろしかった。  でも話の最後に、必ずこう言うのだ。私を魔女にしたくなかったくせに。 『でも後悔はしてないわ。だって――私はこの世界も、そこに住む人間も愛しているもの』  勿論、貴女のこともね、シルヴィア。  人形のような瞳にありったけの愛情を滲ませて、言ったのだ。  その言葉で私は、魔女になることを決めてしまった。  私も母と同じように、この世界もそこに住む人も大好きだったから。  やがて師匠を必死で説き伏せて、私は精霊と契約を結んだ。  師匠が亡くなったのは、それからすぐのこと。  私は涙を流す代わりに、墓前に花を供えた。  私はそっと大木に手を翳す。呪文を唱えると、私を中心に光が地面に複雑な模様を描いていく。それが最後に円となって繋がった時、私の目の前に“扉”が現れた。月明かりのように淡く、ぼんやりと闇の中に浮かび上がっている。  これが精霊達の世界と私達の世界、二つの世界を繋ぐ扉だ。  いつも通りその扉の確認をする。何かが出入りした気配はないか、何処かに異常はないか。  うん、今日も大丈夫。  私は再度呪文を唱え、その扉を別の空間へと隠す。  ふと、今日の出来事が頭に浮かぶ。  ディランは、笑顔が素敵な女性がタイプ、だと言っていたわよね。そうか、じゃあ私のことはーー。  慌てて首を横に振り、その考えを打ち消した。  早く帰ろう。  私の帰りを待つ人は、もう誰もいないけれど。   「おかえりなさい」  家には既に灯りが点っていた。  驚いて中に入ると、ディランが澄ました顔で立っていたので余計に驚く。 「え、ディラン。もう今日は教室が終わったら帰っても良いわよって……」  彼は毎日、自宅のある街からここまで通ってくれている。だから今日は街で別れたはずなのに。 「師匠(せんせい)は放っておくとご飯も食べずに寝てしまいますから。明日も教室でしょう? きちんと食事をとって、ゆっくり休んで下さい。寝坊はナシですよ」  少しだけ柔らかい口調でそう言うと、ディランは片手でテーブルの上を示す。  そこには完璧にセッティングされた夕食が二人分。白い湯気が立ち上り、見ているだけで暖かさが伝わってくる。  ダメだ。  俯いて、軽く息を止めた。頬に触れて自分の表情を確かめる。 「――師匠(せんせい)?」 「ごめんなさい、私、今はダメなの」  絞り出すようにして、その言葉だけをなんとか紡ぐ。  寂しい時に優しくしてくれて、泣きたいくらい嬉しいのに。彼が私の為にしてくれたことを、純粋に喜びたいのに。  それができない。  酷い、私だ。  もう感情はぐちゃぐちゃだ。 「何かあったなら、おっしゃって下さい」  ディランが少しだけ私との距離を詰め、静かな声でそう言った。 「そうでないと、俺は貴女の気持ちが分からない」  胸の中で抑えていた感情が爆ぜる。一気に喉を駆け上がり喉を痛めつけながら、それは言葉となって吐き出された。 「――そうよね。分からないわよね」  私は顔を上げた。 「こんな、の気持ちなんて、誰にも」  母同然の師匠が亡くなった時、胸が張り裂けるくらいに悲しかったけど。私は泣いてはいけなかった。  “魔女”になったから。  魔女の力を失えば、守れなくなる。師匠が愛した存在、私が愛する存在を。  だから我慢して、感情を抑えて抑えて。そうしている間に、いつからか。  私の顔に、笑顔の仮面が張り付いた。 「『微笑みの魔女』だなんて、なんて皮肉かしら。私はこの顔しかできないのに……! 私だってもっと、もっと、本当は……。心のまま笑ったり、怒ったり――泣いたりしたいのに」  ディランの瞳が揺らぐ。困惑、そして、苦しそうにも見えた。  ああ。そんな顔を、させてしまった。  ねぇ、ディラン。もし、私が魔女じゃなかったら。  貴方の理想の、笑顔が素敵な女性(ひと)になれてたかしら。  パチンと泡が弾けたように、私は我に返る。 「ごめんなさい今日はもう帰って。食事もごめんなさい。私どうかしてるのよ。これ以上何か言う前に、お願い」  目を伏せて、早口で捲し立てるように告げた。彼の返事も待たず、私はディランの横をすり抜け自室へと向かう。  彼の顔を見る勇気はなかった。
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