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 すっと首筋が寒くなった。反対に手のひらにはじわりと汗がにじみ、倒れる寸前のように景色が歪んで遠ざかっていく。 「……だ、誰だよ?」  震える声をかろうじて絞りだした弘樹に、彼はファッション誌の一ページのように絵になる顔で笑った。 「〝マナブ〟です。はじめまして〝六機〟さん」 ◇◇◇  寿司の味なんて覚えていない。  何か話しただろうか? 弘樹はひと言も口がきけなかった気がするが、それすらも定かではない。  覚えているのは、ふらふらと歩く自分が会社の入っている中規模オフィスビルの前でかろうじて足を止めたとき、〝マナブ〟が「六機さんの職場はこちらなんですね。やっぱり近くだ。僕はいまはあそこです」と、この辺りで一番新しい三十何階建てのそびえたつビルを指さしたことだけだ。  席に戻った弘樹を、課長が怪訝な顔で見る。  「どうした? 本当に顔色悪いよ。具合悪い? 早退した方がいいんじゃないの?」  「……はい……そうします」  少しも席を温めることなく、言われるままに弘樹は会社を早退した。普段乗らない昼間の電車に妙な感じを覚えながら家に向かう。身体がふわふわとして落ち着かない。日常と少しだけずれている夢の中にいるような感じがする。  鍵をあけて鞄を放り投げると、いつもの部屋着に着替えもせず椅子に身体を投げ出す。ギシッと悲鳴のような音が鳴る。外は晴れているがカーテンを閉めているので部屋は薄暗い。いつもだったら何をおいてもパソコンを立ち上げるのに、そんな気になれなかった。  〝マナブ〟に会ってしまった。  なんとなく頭の中で描いていた姿とは、似ても似つかない男だった。  彼は自分を見てどう思ったのだろうか? よれたスーツを着て、万年寝不足の青白い顔をして髪型にもこだわらない冴えない男、それが自分だ。それに対してマナブはどうだった? 衝撃が大きすぎて細部はもう覚えていないが、年中SNSにいるとは思えないほどリアルも充実していそうな男だった。顔もよくて足も長かったし着ているものもこぎれいだった。ノーネクタイで足元はやけに白いスニーカーだったし、あれは多分服装にうるさくない外資系かベンチャーか、そういうきっと給料の高い会社につとめているのに違いない。その上、近づくと何かわからないが高そうな香水の匂いがした。 「いや、やばいだろ……」  SNSでのやり取りでは、ふたりの関係は対等か、もしくは作家とファンの間柄で弘樹の方が上だった。それが、どうだ? 現実はあっちの方が数段上等な人間だった。顔も体格も、多分、学歴も仕事も、何もかもだ。 「やばいって……」
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