111人が本棚に入れています
本棚に追加
/77ページ
かーっと弘樹の顔が赤くなる。なんでなんだ? たかが名前呼びされたくらいで情けない。とっさに椅子を回して顔をそむける。壁を見ながら、うん、とぶっきらぼうにこたえると、マナブが「照れるね」と笑った。一緒に苦笑いをこぼしながら、微妙にふたりの間の空気が変わったと感じた。きっとそれは、SNSの中だけの存在だったフォロワーの〝マナブ〟が、弘樹の現実に関わる登場人物に変わった瞬間だった。
「マナブさんは、名前何て言うの?」
軽い気持ちで聞いたら、マナブ・デイヴィット・ブラッドリーと本場の発音で返されてひるんだ。今さらだがやっぱり外国人だったと呆ける弘樹に、「ノブか、デイヴ、ディービーとか好きに呼んで」と言われたが、一番ハードルが低そうなノブだって発音は『ナブ』に近い。英語ができない自分が呼ぶのは恥ずかしすぎる。
「い、今まで通りで」そう言うとマナブは明らかに落胆した表情をした。
「せめて、『さん』ははずして。マナブって呼んで?」
そんなに悲しそうな顔をされると困る。
「ま……まなぶ……?」
弘樹が小声で言うと、なにかにひどく驚いたように口をぽかんと開けたまま彼の動きが止まった。続けてあーっとらしくない奇声を上げてカメラの前から姿が消えた。しばらくして遠くからドタドタいう足音と、「オーマイガー」とか「カマーン」とかハリウッド映画でよく聞く早口のフレーズが漏れ聞こえてきて、やがてマナブは飛び跳ねながら戻ってくる。はぁはぁと息を荒げながらまた椅子に座り、何食わぬ顔で机の上に手を組んだ。
「……大丈夫?」
「うん」
応える息はまだ荒い。はぁはぁいいながら、ちょっと水飲ませてと、彼はまた画面から消えた。すぐに戻りミネラルウォーターのキャップをひねるマナブに、恐る恐る聞く。
「え? まさか部屋の中走った?」
「あー……ちょっと正気でいられない」
そう言ってマナブは喉仏を大きく上下させながらごくごくと水を飲んだ。あっという間に三分の二を飲み干す。その飲みっぷりをあきれて見ながら、「はぁ?」と声が漏れた。
どんだけ本気で走ってきたんだよ。家の中なのに。苦情来るぞ。
「ふふっ」と笑いがこみあげる。吹き出した弘樹はそれから止まらなくなって、しばらくパソコンの前で笑い転げていた。身体も大きくて筋肉もついていて強そうな彼なのに、ときどき妙なところで可愛くなるのがおかしい。そうして屈託なく笑う弘樹を、マナブが愛おしそうな目で見ていたのには、弘樹は気がつかないふりをした。
最初のコメントを投稿しよう!