1.生きたいあたし

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1.生きたいあたし

 湿った風に乗り、微かに水の匂いがした。  ゆっくりと首を巡らせてみる。  なだらかな地表は草が生えているのかどうかもよく分からないほど輪郭が曖昧だった。全体的に黄砂で霞んだ春の風景のように、向こうに見える木も、岩も、そしてその奥を流れている川ですら、薄ぼんやりと滲んで見える。  水音はしない。無音。全ての音は周囲に漂う生温かい空気に吸い取られてしまっている。水の流れだけが静かに息づくその様は、まるで無声映画のワンシーンを見ているかのようだ。  ここはどこだろう。  いつ、どうやって自分がこの場所にきたのか分からない。気がついたらここに立っていた。首を巡らせたと言ったけど、自分に首が本当にあるのかも、この風景を目という器官で見ているのかどうかも、実を言うとよく分からない。自分の体に触れてみたい気もするけれど、手がどこにあるのか、どうすれば動くのかも分からない。でもまあ、そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。  空気が動いた気がして顔を上げると、川のほとりに誰か立っているのが見えた。  足を一歩踏み出してみる。  と言っても、顔も足も確実にその存在を把握できている訳じゃないから、そんな気がしているだけだけど。足裏にふんわりと柔らかい、まるで綿を踏んでいるかのような感触があったから、それに類するものはあるんだ。多分。  気配を感じたのか、その「誰か」は首をギシギシときしませながら、あたしの方に顔を向けた。  ぼんやりと霞むその姿は、どうやら老人のようだ。枯れ木のように痩せこけた体にボロボロの布を巻き付け、うろんげな表情でこちらを見ている。眉間に深々と刻まれた縦皺とへの字にひん曲げられた口には、友好的感情のかけらも感じ取れない。男か女かすらよく分からない。 「あの……」  声、を出したと自分では思う。でも、それが本当に「音声」というものかどうかは例によってよく分からない。頭で思っただけのような気もする。でもまあとにかく声をかけた。
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