第2話

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第2話

 年上の愛し人の低く甘い声に弱い京哉は耳を押さえて思わず後退った。  霧島(しのぶ)、二十八歳。この若さで警視の階級にあり機捜隊長を拝命しているのは最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリアだからだ。全国の警察官約二十六万人の一パーセントにも満たないスーパーエリートである。  そんな霧島は長身をオーダーメイドスーツで包み、シャープな輪郭に切れ長の目も涼しく怜悧さを感じさせるほど端正だ。  更に武道の全国大会で何度も優勝を飾っているという眉目秀麗・文武両道を地でゆく男である。それ故『県警本部版・抱かれたい男ランキング』でトップを独走しているが女性が全くだめなので京哉にとっては有難くも安心できる結果となっていた。  おまけに霧島はあの霧島カンパニー会長御曹司でもあった。  暗殺されそうになった京哉を霧島率いる機捜が助けたあの一件で霧島カンパニーはメディアに叩かれて株価が大暴落し、企業体として進退を迫られる寸前まで追い詰められた。  だが何とか踏み止まって現在は持ち直し、却って株価も上昇傾向にある。  お蔭で警察を辞めたら霧島カンパニー本社社長の椅子が待っているのだが霧島本人は現場のノンキャリア組を背負ってゆくことを何より望んで辞める気は毛頭ない。  それどころか霧島本人は実父の霧島光緒(みつお)会長を蛇蝎の如く嫌い、裏でやらかしている悪事の証拠さえ押さえたら逮捕すると明言して憚らない。  今では京哉の方が霧島会長と気が合い御前と呼んで親しんでいる。  しかしこれだけ揃った超優良物件には誘惑も多い筈だが、霧島は一生京哉だけと言ってくれていたし想いを信じるに足るだけの言動でも示してくれていた。  だが大胆にも職場での夜の誘いに京哉は慌てて周囲を窺う。  霧島の低い声は聞こえないようだったが、耳朶に唇を寄せるという昼食時にそぐわぬ行為に皆が「おお~っ!」と囃し立てた。 「ちょっ、何を忍さん……じゃなくて霧島隊長!」 「私の提案が気に食わなかったか、鳴海巡査部長?」 「そうじゃなくて、これ以上みんなにネタを投げ与えないで下さい!  「なあなあ、それより俺、腹減ったんだけどな」  横でニヤニヤしているのは副隊長の小田切(おだぎり)である。こちらも霧島の二期後輩のキャリアで階級は警部だ。自称・他称『人タラシ』で男女構わず手を出した挙げ句に上層部に睨まれ、たらい回しの末にやってきた。  機捜に配属された当初は京哉にちょっかいを出していたが、つい先日とうとう彼氏を得たばかりである。おまけに言えば左鎖骨骨折が治ったばかりでもあった。 「すみません、副隊長……えっ、あっ、小田切さん!」  弁当を差し出した京哉は小田切に腰を抱かれて暴れる。そこで霧島が一切の予備動作もなくマウスを投げた。狙い違わず小田切の額にガツンと当たり、仰け反った小田切に霧島が冷たく言い放つ。 「私の京哉に何をする、次は撃つぞ。大丈夫か、鳴海。妊娠しなかったか?」 「ええ、何とか。小田切さん、ふざけてばかりいると香坂(こうさか)警視に言いつけます!」 「ごめんごめん、ついクセになっちゃっててさ」 「生活安全部(せいあん)の香坂課長には私からメールで報告しておこう」 「えっ、マジで? それだけは勘弁してくれないかな? な?」  騒ぎつつ茶と弁当が揃って三人も食事にする。ここでは夜食も含め一日四食三百六十五日全てが近所の仕出し屋の幕の内弁当と決まっていた。  迷うことを知らない霧島がそれしか注文しないからである。だが今日は寒ブリの照り焼きが入っていて、冬が近いことを感じさせていた。  早々に食べ終えて京哉は茶のおかわりを配り、デスクに戻り食後の煙草を味わう。同じく至福の一本を吸おうと小田切が煙草のパッケージを逆さに振り溜息をついた。 「京哉くんは煙草、足りてるかい?」 「はい。何なら僕が買ってきましょうか?」 「いいよ、秘書殿を小間使いにするほど偉くないからね」  そう言って小田切は詰め所を出て行く。一番近い自販機は一階の階段裏だ。すぐ帰ってくるだろうと踏んで京哉はノートパソコンに向かい始める。仕事内容は隊長や副隊長に任せておいては間に合わない書類の代書だ。  隊長曰く『書類は腐らん』とのたまい、すぐにオンライン麻雀や空戦ゲームに逃げようとする霧島にたびたび檄を飛ばしながら仕事を進める。  茶を啜りながら京哉と霧島は書類作成に没頭し、出来上がった片端から関係各所にメールで送りつけた。そうして先週から督促メールが来ていた五通を送り終えてみると意外に早く十五時半だった。熱中していた京哉と霧島はそこで異変に気付く。  煙草を買いに出た小田切が三時間も経つのにまだ戻ってきていない。 「何処まで出掛けたんだ、あの男は?」 「さあ。迷ってる……ってことはないですよね。僕、捜しに行ってきましょうか?」 「いい。そのままUFOにアブダクションでもされてくれたらいいのだがな」  真顔で言う霧島に京哉は苦笑し、新たに茶を淹れ直すために立ち上がりかけた。けれど唐突に通常ならここで聞くことのない声を耳にして動きを止める。  それは泣き声だった。それも子供の泣き声だ。不審そうな霧島の視線を辿って京哉も同じものを見た。詰め所の出入り口に小田切と十歳くらいの男の子が手を繋いで立っていた。  男の子はグレンチェックの上下を着用していて、京哉はそれがこの白藤(しらふじ)市内の有名私立である四菱(よつびし)学園大学附属小学校で指定されている制服だと見取る。 「わあ、やっぱり父親がキャリアだと息子さんも優秀なんですね!」  至極明るく京哉が言った一方で霧島は眉間に不愉快を溜め溜息と共に吐き出した。 「小田切、我が子に職場見学をさせるなら広報を通してからにしろ」 「俺はまだ二十六で独身だっつーの!」  渋い顔で喚いた小田切にあくまで真面目に霧島は返す。 「それがどうした? 貴様なら子供の一人や二人こさえていても不思議ではない。それとも何か、貴様自身も今日まで存在を知らなかった我が子が現れたのか?」 「勝手にストーリーをねつ造するなって」  こういった会話も甲高くなった男の子の泣き声に紛れ、大声でないと成立しなくなってきていた。小田切は渋い顔のまま男の子を引きずるように詰め所に入ってきて、霧島と京哉のデスクの間に立つ。  そうして霧島隊長の前で姿勢を正した。 「報告します。一階の自販機に煙草を買いに下りた際、エントランス張り番の警備部巡査が庁舎に侵入を試みたこの男児を確保。聴取では『お母さんを捜しに来た』と供述。本職があらゆる部署の婦警に面通しするもノーヒット。少年育成課につれて行くも本職の手を頑として離さず、仕方なく現時点のような状況に陥ったのであります。以上、報告終わり」 「ふん、人タラシは見境ないな。それで生安の少年課で身元は洗っているのか?」 「見境ないとは心外でありますが、生安から報告が上がってくる頃であります」 「名前は……入江慎吾(いりえしんご)か。ふむ」  学校指定の名札を読んで霧島は京哉に目を振り向けた。何も京哉は秘書であって保母ではないのだが自分のように上背のある威嚇的な男より、小柄で華奢な京哉の方が男の子を宥めやすいのではないかと思ったのだ。  見られた京哉は期待に応えるべく席を立つと、保険のオバチャンが先日置いていったキャンディを掌に載せて男の子に見せた。 「慎吾くん、これ食べない?」  目前に差し出されたキャンディを一瞥し、男の子は一拍置いてまた泣き出す。仕方なく京哉はおもむろに男の子の前にしゃがみ込んで伊達眼鏡を外した。すると素顔で微笑んだ京哉を見た男の子はふいに泣き止む。  警務部の制服婦警を中心に『鳴海京哉巡査部長を護る会』まで結成され、最近は『県警版・抱かれたい男ランキング』の上位に食い込んできた京哉の素顔は効果絶大だった。  男の子はポカンとした顔つきで京哉を見つめ、小田切の存在も忘れたように手を離す。  代わりに片手でキャンディをわし掴み、もう片手で京哉の手を握った。それからは何をどう宥めすかしても、京哉の手を離そうとはしなかった。 「うーん、スッポンに食いつかれた気分」
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