第1話

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第1話

 首都圏下の県警本部庁舎二階の機動捜査隊・通称機捜の詰め所で京哉(きょうや)はノートパソコンに向かい、キィを打ちながら黙々と煙草を吸っていた。  右側にある隊長のデスクから霧島(きりしま)が灰色の目でずっと視線を寄越しているのは知っている。  もの言いたげなそれに答えたくない意志を示すため、朝からチェーンスモークの咥え煙草で過ごしているのだ。その状態で昼前になってしまい、とうとう我慢できなくなった霧島が低い声を投げてくる。 「鳴海(なるみ)巡査部長、今朝のことだが――」 「霧島警視、無駄口を叩くヒマがあったら書類に手を付けて下さい」  返事があっただけマシと思ったのか霧島は溜息を吐いて自分のノートパソコンに向かい始めた。互いに五分を張る頑固さでプライドも高い年上男があっさり謝るほど素直じゃないのは京哉も分かっている。  だが喧嘩の発端は非常に馬鹿馬鹿しいもので、京哉が生ごみを捨てるのに今日の新聞で包んで捨てたというのが理由だった。  しかしそもそも今週のごみ当番の霧島が生ごみを捨て忘れていたのが原因で、故に京哉は自分から折れる気は全くなく霧島が謝るまで無視すると決めているのである。  詰め所内には昼飯休憩で本日上番の三班の隊員たちが戻り始め、噂好きの彼らは明らかに喧嘩したまま出勤した同性パートナーの京哉と霧島を注視しては騒いでいる。 「おい、まだあの二人は喧嘩続行中か?」 「そうらしいが隊長は随分と浮上したみたいだな」 「鳴海にベタ惚れ、今朝のドン鬱にはさすがに引いたよな」 「まあな。でもこれなら俺、今日中に仲直りする方に賭けるわ」 「いやいや、ああ見えて意固地になった鳴海は手強いぞ?」 「だからって明日に賭けてもレートが低いしな」 「そりゃあ、どうせ今晩の隊長は鳴海が妊娠しそうなくらい頑張って……」  左薬指にペアリングを嵌めた二人の仲は皆が承知で公認の仲というヤツだ。  そんな二人を見守ってくれる者もいるが圧倒的に面白がっている者が多い。不自然なほど女性率の低い機捜では下ネタか、完全に他人事の恋愛話に走るのも仕方がないと云えた。  そこに同性パートナーなる要素まで加われば食いつかない訳がない。  別に同性カップルという点で偏見を持つような彼らでないのは京哉も有難いと思っているが、何れにせよ様々な要素で数え役満状態の自分たち二人は、お蔭で噂好きの隊員たちに常にネタを提供してしまっている。  だからといって調子に乗られ賭けまでされた挙げ句にまたも下ネタだ。慣れたとはいえ京哉は羞恥に血を上らせる。  だが頬が赤くなる前に京哉は器用にも血が上る方向を意図的に変えた。頭に血を上らせムカッ腹を立てて霧島をチラリと見たら目が合う。  偶然を装って京哉は視線を逸らし野暮ったいメタルフレームの伊達眼鏡を押し上げた。  皆の話は霧島にも聞こえていた筈だが、涼しい表情は変えていない。いや、僅かに口元に笑みを浮かべていたような気もする。  この霧島という男は大抵のことでは動じず涼しい顔を崩さない、非常に安定した精神の持ち主だ。常に堂々としているのは職務に関して有用な特性かも知れない。  しかし部下から大声で自分の下ネタを語られても構うどころか京哉というパートナー絡みの話題なら却って何でも嬉しがるのはどうだろうかと京哉は疑問に思う。  パートナーの京哉から見ても霧島は奇人・変人の類に属しているとしか思えない。  勿論、奇人・変人ではない京哉だって霧島とのパートナー関係を他人に認められるのは嬉しいが、この下ネタで喜んだら何か大事なものを失くすレヴェルだ。  図々しくも図太い霧島と違ってこっちはメンタル構造が脆いのだから気を遣って欲しかった。  とはいえ京哉も殆ど他人に興味がないので脆さも、あくまで当社比だが。  プリプリしながらも仕事は忘れていないので給湯室に向かう。自分は機捜の秘書、今年春に異動してきて未だ十ヶ月と経たない。本来なかった秘書のポストは霧島隊長がワケあり異動せねばならなかった京哉のために新設してくれたのだ。  大切な仕事のひとつであるお茶汲みにいそしむ。トレイに大量の湯呑みを並べて茶を淹れ、詰め所と二往復し在庁者に茶を配った。  鳴海京哉、二十四歳。  巡査部長二年生でスペシャル・アサルト・チーム、いわゆるSAT(サット)の非常勤狙撃班員でもあった。  県警本部長から直々に狙撃班員に指名されたのは事情があって狙撃班員が払底したのと、京哉が元々暗殺に従事するスナイパーだったからだ。無論合法ではない。  警察学校で抜きんでた狙撃の腕に目を付けられ、政府与党重鎮と警察庁(サッチョウ)上層部の一部に巨大総合商社の霧島カンパニーが組織した暗殺肯定派に陥れられ、警察官をする傍ら政敵や産業スパイの暗殺に五年間も従事させられていたのだ。  その五年間の暗殺スナイパー二重生活を維持するために他者と必要以上の関わりを持たなかったので現在に至っても他人に対する興味が薄い傾向にある。  野暮ったいメタルフレームの眼鏡も伊達で自分を目立たなくするためのアイテムだった。既に掛け慣れてしまい、今ではフレームのない世界が落ち着かないので漫然と掛けている。  ともあれそんな暗殺スナイパー生活にも自ら幕を引こうとした。  知り過ぎた男として暗殺されるのを覚悟でスナイパー引退宣言をしたのだ。  予想通りに京哉も暗殺されかけたが、間一髪で霧島が機捜の部下を率いて飛び込んできてくれたお蔭で命を存えた。  そのあと京哉が暗殺スナイパーだった事実は警察の総力を以て隠蔽されたため、今はこうしていられるのだ。  だが暗殺は強要されてやったことだとはいえ自分が撃ち砕いてスコープ越しに見てきた凄惨な光景、二桁に上る人々を京哉は忘れない。彼らの墓標は心の中にある。  それらを一生背負ってゆく覚悟はもできていた。  職務上の相棒(バディ)でもあり、生涯を誓い合ったパートナーの霧島も共に背負うと言ってくれていた。暗殺によって壊れかけた京哉の心も霧島のお蔭で癒されつつある。  そんなことを思い出し京哉は霧島の茶に砂糖を混ぜるのを止め、一番上等な茶葉と入れ替えて丁寧に淹れ直した。  自分の茶も美味しい茶葉で淹れ、ついでに副隊長の茶もじょぼじょぼ淹れてトレイに載せると詰め所に戻りそれぞれデスクに配給した。  機捜は二十四時間交代という過酷な勤務体制である。隊員たちは先を争うように幕の内弁当を頬張っていた。食ったらすぐに警邏に出なければならない。  覆面パトカーに私服で密行警邏し、殺しや強盗(タタキ)に放火その他の凶悪事件が起こった際にいち早く駆けつけて初動捜査に就くのが機捜の職務だ。  そのため彼らはのんびりしていられない。  片や隊長と副隊長に秘書の京哉は内勤で日勤、大事件が起こらない限り土日祝日も休みである。そして今日は火曜日、週も初めで雰囲気を悪くしたのは拙かったと京哉は反省し、幕の内弁当を三個確保して一個を霧島隊長に手渡す際に微笑んでみた。  微笑まれた霧島は急激に機嫌を良くし、ハーフだった生みの母譲りの灰色の目を眇めて京哉を見返した。  京哉としてはそれで十分だったのに更に霧島は席から立ち上がり身を乗り出して、百九十センチ近い長身を屈ませ小柄な京哉の耳元に囁く。 「今朝は悪かった。仲直りの証に……なあ、今晩、いいだろう?」
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