お万の方

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お万の方

私は、参議・六条有純の娘。 もちろん、本名は伝わっていません。 徳川三代将軍家光の側室で、 大奥ではお万の方と呼ばれていました。 大奥では、“〇〇の方”と呼ばれるのは、 上様の御子を上げた女人に与えられる尊称で、部屋を与えられ正式に側室として認められたという証しでもありました。 それまでは、単なる“お手付き”の奥女中として扱われるのでした。 ですが、私は大奥入りしてすぐ、 “お万の方”として側室の扱いになりました。 それは恐らく、大奥総取締の春日局様の“ご配慮”だったのでしょう。 公家の娘である私が、どの様にして大奥に入り側室となったのか、公の文書にははっきりとは書かれていないようです。 それは、特殊な形で大奥入りしたからなのでしょう。 私は、幼少の頃から仏の教えへの渇望があり、父を説得し10歳で慶光院という尼寺に入りました。 しかし、父の意向もあり、直ぐには剃髪はしませんでした。 尼削ぎのように肩の辺りで髪を切り、 額面の前髪を左右の肩前に垂らす。 そして袴を着用する“喝食”と呼ばれる姿で“院主見習い”のような形で修行をつんでおりました。 ですから、尼寺に入ったものの、完全に出家した訳ではありませんでした。 父の考えでは、そうして数年修行をして満足したところで家に戻し、普通の娘のように嫁がせる、修学と行儀見習いのつもりで折れて、私の願いを聞き入れたのでしょう。 慶光院は、初代院主の守悦上人が公家の 飛鳥井家出身の人物と伝わっており、 また、2世智珪上人も堂上家の出身とされ、朝廷との結びつきも強く、 上人号と紫衣を許された格式ある尼寺でした。 5世・周清上人は、政治力にも長け、 江戸幕府との結びつきも強め、 春日局とも懇意であったと言います。 慶光院は寺領300石を有し、江戸時代を通じて朝廷や幕府・御三家からの崇敬を受けておりました。 私が慶光院におりました頃は、6世周宝上人様が院主をされておりました。 ですが、周宝上人様はお身体が弱く、実質的に取り仕切っておられたのは、既に隠居されていた5世周清上人様でした。 周清上人様は、七世院主として参議の娘である私を据えて、慶光院の格を更に確かなものにされようとしたのかもしれません。 私は、“喝食”姿から頭を剃り上げ、 正式に尼僧となり、慶光院の跡目相続の挨拶のため江戸へ下向いたしました。 寛永16年(1639年)のことでございました。 しかしこれまで、朝廷との結びつきの強い慶光院の院主が、跡目相続の挨拶のため江戸へ下向したことはなく、 徳川の世となったからとはいえ、 今思えば、春日局と周清上人様との間に “密約”があったのかもしれません。 その“密約”がどの様に結ばれたのか知る由もありませんが、春日局が上様(家光)の女性に対する劣等感、忌避感を和らげる女人を探していたことは確かでしょう。 周清上人様から、 「若く美しい公家の姫を新院主として継がせる」話を聞いた春日局が、 (もし、上様がお気に召せば、側に置くことで変わるかもしれない)と考えたのかもしれません。 徳川将軍家は、天皇家・公家が外戚となるのを好まず(政治から朝廷を遠ざけるため)、正室を京から迎えても子どもはひとりも生まれていません。 大奥で、その様に管理していたのです。 ですから、私を大奥に入れ、側室としても、それは子どもを生ませるためではなかったはずです。(事実、私は子どもを持ちませんでした。) 私は、春日局と周清上人様との“密約”があるとも知らず、伴の尼僧と共に江戸へ下ったのでした。 慶光院では、院主見習いとして公家の姫として多くの尼僧に傅かれ、大切に扱われてきました。 院主となれば、さらに民からも仰ぎ見られる存在になるのでしょう。 私が仏の道を求めたのは、長い戦乱の時代は終わったものの、まだ様々な苦難に喘ぐ民を救いたいという思いからでした。 しかし、仏の道を学び人々にその教えを説きながら、自身は粗末とは言えない立派な衣を身に纏い、大きな伽藍に住まう。 江戸へ向かう道すがら、貧しい民の姿を見るたびに、自分のやっていることは、果たして民を救うことなのだろうかという疑問が沸き起こっていたのでした。 跡目相続の挨拶を終えて慶光院に戻ったならば、寺の在り方、院主としての在り方を変えていかなければならないと心の中で密かに決意していたのでした。
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