足止め

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「あの…お方様…」 先ほど藤野と言っていた奥女中から声を掛けられた。 「上様より、大奥へお入りになる時は “お万の方”と名乗るようにとのお達しがございましたので、まだ大奥に入られると決まったわけではございませんが、 こちらではお方様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」 「そうですね。 もう、慶光院の院主ではないそうですから、そうお呼び下さい。」 「お方様、お茶をお持ちいたしますか? お話なされて、喉が渇いておられるのではありませぬか?」 「ありがとう。 そう言えば、喉が渇いていました。 お願いします。」 藤野が茶を淹れてくれた。 「藤野と呼んで良いのでしょうか?」 「はい、藤野とお呼び下さい。」 「藤野、上様は、どんなお方であろう? 知っていることを教えてたもらぬか?」 「私は、お目見え以下の者でございますから、直接お言葉を交わしたり間近でお顔を拝したりする事はございません。 ですから、お話出来るようなことはすくないですし、春日局様から伺ったことでございます。」 「例えば?どんなこと?」 「今はお丈夫になられましたが、 幼い頃はお身体が弱く、食も細くて 春日局様は乳母としてご苦労なさったそうです。 吃音があって、家臣に言葉を掛けるようなことも余りなかったので、愚鈍と思われていた時期もあったようです。 御母上のお江与の方様は、弟の国松君を溺愛なされていたそうでございます。」 「そうですか。 教えてくれて、ありがとう。」 「今日は、お疲れでございましょう。 湯浴みの準備をして参ります。 早くお休みになって、疲れをお取り下さいませ。」 部屋には、美しい小袖と打ち掛け、 かもじ(かつら)と共に、新しい袈裟も用意されていた。 無理強いしてまで大奥へ入れるつもりはない、という春日局の言葉は、 どうやら嘘ではないらしい。 これまで、幼き頃より仏の道を求めてきた。高貴な公達の元に嫁し、雅な生活を送るより、弱き人のために働きたいと己の欲を排し修業に励んできた。 しかし、春日局の言うことも、もっともであり道理に叶っていると思った。 ここで大奥入りを拒んで、一寺を与えられ尼に戻ったところで、一体何が出来るのだろう。 釈迦やその弟子たちのように、粗末な衣に身を包み、托鉢しながら教えを説くわけではない。 幕府の加護の元、所詮、世間知らずの公家の娘が、慈悲を施す真似事をするだけの自己満足に終わるのは、目に見えていた。 かといって、まだ、このような華美な衣裳を身に纏うのは、抵抗があった。 「藤野、もう尼ではないので、今日より頭を剃るのは止めに致します。 かといって、まだ、かもじを付けて、このような衣裳を着る気持ちにもなれません。 髪が伸びるまで見苦しくないよう、 頭巾を用意してたもらぬか? 尼でもないのに袈裟を纏うのもおかしなものだが、しばらくは、このままで。 それと、このような色鮮やかな贅沢に刺繍を施した打ち掛けはあまり好みませぬ。 もっと落ちついた色味の物にしてたもらぬか。 このように金糸銀糸を贅沢につかった衣裳は私には不要じゃ。 将軍様に失礼のない程度に、質素な衣を用意して欲しい。 それも、いつ袖を通す気持ちになるか分からぬから、急がずとも良い。」 「畏まりました。」
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