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迷い
“お万の方”が城内の別屋敷に入って
10日ほど経った頃。
藤野は春日局に呼ばれた。
「お方様のご様子はいかがじゃ?
お気持ちはまだ変わらぬか?
日々何をしてお過ごしなのじゃ?」
「はい、書を読まれたり、写経ををされてお過ごしでございます。
もう、尼に戻られるおつもりはないようで、頭は剃られて下りません。
ですが、まだ俗に戻られることに、
お心に迷いや躊躇いがお有りのようで、
袈裟をお召しになっておられます。」
「それでは、頭を剃っていないだけで、
尼の頃と同じようなものじゃな。
幼き頃よりの生活を、急に改めることに躊躇いがあるのは仕方のないことなのかもしれぬが、上様のご関心が薄れてしまっては元も子もない。
なんとか藤野の才覚で、お方様の気持ちが動くよう考えておくれ。
屋敷にばかり籠もっておらず、
城内を散策するなど工夫するのじゃ。
そういえば、お衣装がお気に召さぬようじゃの?」
「はい、華美な物、豪奢な物はお厭いのようでございます。
ですが、ご自身でもご努力はされておられます。
上様の事をお尋ねになられたり、
『三河物語』などを読まれたりしておられます。」
「中の丸様のことは、お尋ねになられたか?」
「いえ、まだそのことはお尋ねになっておりませぬ。」
「中の丸様の事は、既に耳にされておるやもしれぬが、お尋ねになられたり、
お目通りなさりたいようであれば、
私がお話致す故、呼ぶように。
隠し立てせず、ありのままにお話するしかないからのう。」
家光と正室の鷹司孝子の心のすれ違いは、
複雑だった。
孝子が江戸へ輿入れする前後、京と江戸の関係は冷え込んでいた。
慶長14年(1609年)
猪熊事件(いのくまじけん)が起こる。
この事件は、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件で、公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされた。
この事件を江戸幕府は巧みに利用し、
宮廷制御の強化を図った。
二代将軍秀忠は、恐妻家で年上女房のお江与の方の尻に敷かれていて側室もなく、唯一の庶子保科正之は、家光さえその存在を長く知らされないほど秘匿されていたという。
もちろん、生母は側室として大奥に入ることはなかった。
しかし、秀忠の“恐妻家”は、実は自身の清廉ぶりを示すためだったとも言われている。
側室さえ持たない将軍だからこそ、公家の乱脈を厳しく断罪することができたのだ。
この事件は、後陽成天皇の退位のきっかけとなり、慶長20年(1615年)
禁中並公家諸法度が定められることになる。
また、寛永4年(1627年)紫衣事件(しえじけん)が起こる。
禁中並公家諸法度制定後、幕府は朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じていた。
それにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、これを知った幕府は、法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に紫衣を取り上げるよう命じた。
この事件により、
「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」
という事、また、朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事が明示されることになった。
元和9年(1623年)8月、
家光が征夷大将軍宣下を受けるための上洛中に鷹司孝子は江戸へ下り、
秀忠の御台所お江与の方の猶子となった。
つまり、江戸城大奥での孝子の後ろ盾は、お江与の方ということになる。
元々弟贔屓の母と家光には確執があった。
その母が後ろ盾になっている、年上の公家の娘。それだけで、母お江与の方が西の丸に移った後も大奥に影響力を持とうとしているのが見えて気に入らなかった。
ところが、お江与の方は、寛永3年(1626年)9月15日に死去してしまう。
孝子は、早々に後ろ盾を失ってしまったのだ。
父秀忠もまた、征夷大将軍を辞し西の丸に退いた後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続けて、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治状態が続いていた。
寛永3年(1626年)7月
後水尾天皇の二条城行幸のため将軍・家光は再び上洛する。
その時、大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従え共に上洛した。
二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠は太政大臣に、家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。
このように、御台所孝子は公家を押さえつけようとする幕府(=家光)に良い感情を持っていなかったであろうし、
家光も、隠居後も権力を手放さない両親への反発があったのであろう。
御台所孝子も、朝廷と幕府を取り持つ程の器量もなかったのか、お江与の方が亡くなると、別殿(中の丸)を与えられ、実質的に離別状態になってしまった。
しかし、考えようによっては、孝子が朝廷と幕府の板挟みとなることを避けるために、家光は孝子を大奥から出したのかもしれない。
後水尾天皇の中宮となった姉和子(まさこ)は、気が強い夫・後水尾天皇と天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走し、気苦労を重ねていた。
家光は立場上、朝廷に対し強い態度で臨まなけらばならない。大奥に孝子がいれば、朝廷側は、孝子に家光への取りなしを期待するかもしれない。
結婚当初は、母への反発や孝子の気位の高さから不仲であったかもしれないが、
わざわざ別殿に移り住まわせたのは、
姉和子のようになるのを避けるためだったのではないだろうか。
孝子には、34歳年の離れた信平という弟がいた。信平は庶子であるため、
門跡寺院に入るか、他の公家の養子になるしかなかった。
しかし信平はいずれも選ばず、
15歳になった折(慶安3年 1650年)
姉孝子を頼って家臣1人だけを伴い江戸へ下向した。
すると、家光は信平を歓待し、俸禄を与えて召し抱えている。
そして、第4代将軍徳川家綱の配慮により、家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘・松姫を娶り、紀州徳川家の縁者として松平の名字を称することを許された。
公家から武家への転身という事例は、それほど特殊なことではないが、
幕臣として抱えられるのは、ほぼその
高貴な血筋に由来すると推測される
高家旗本としてであり、一般の旗本として取り立てられ、さらに子孫が大名にまでなった例は稀なのだ。
孝子は、家光の在世中は終始忌み嫌われ、
冷遇され続けたといわれている。
家光が死去した際も、形見分けとして与えられたのは、金わずか50両と幾つかの道具類のみであったという。
また、家綱や綱吉ら自らの息子との養子縁組も一切結ばせなかった。
しかし、家綱は家光死後より、母親に準じる手厚い庇護と敬意を孝子に贈り続けた。
この、家光の孝子への冷遇(と見える)と信平への好待遇、家綱の孝子への尊崇ぶりはちぐはぐな印象を与える。
表面的には冷遇し距離を置くことによって、朝廷との軋轢や跡目争いに巻き込まれぬようにし、弟信平を厚遇し、息子家綱には母として接するよう教え込むことで、間接的に孝子を庇護していたといえないだろうか?
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